おやすみをいただきました

日記を書かせてもらっております。
いつもお世話になっております。
ご無沙汰しております。
日記を書かせていただきます。
日記を書かさせていただきます。
さぬき。讃岐。うどん。

わたくしが日記が嫌いなのはご存じだろうと思いますが、今日はそうさせていただきたいと存じます。

最近noteにしがらみが増えてきたと感じる。めんどくさ~。自分を知らない人がいる場所だったのに、気づけば知ってる人がいっぱいになってきちゃった。にんげんってほしいときもあればいらないときもあるからね。おやすみをいただいておりました。

最近いそがしかったんだよな~。あ~いそがしいぜ。忙しい急がしい。
先週一週間は余裕で書いてなかったな。予定があったんだよ。んで、今日は久々におやすみ。授業は楽しいしゼミは始まったし部の仕事はあったし集会にも顔を出したし本も読まなきゃだけど、課!題!が!溜!ま!っ!て!な!い!!!!!!

それだけで心の余裕がちがう!まぁ、読書会は金曜にあるしぜんぜん読めてないし明日は飲み会だし企画もしなきゃだし明日3コマあるしなんならゼミは予習不足で来週続きをやらされることになったけど、仕事は終わった!わーい!仕事めんどくさすぎて(やる準備が整わなさすぎて)部長に鬼詰めされたけどな!マジオレのやる気をくじくなよな!

てか先週書けなかったのは絶対土日にあった授業のせいだろ。6時間くらい椅子にしがみつけられていたらそりゃ体力は死ぬわ。余裕がないと書けなくなるし。日曜起きたら土曜座り過ぎの疲れで背中が椅子型の筋肉痛になっておりました。意識高い系の就活%企業%講義だったのですけれども、あまりにも擬態を怠り過ぎて前途有望な若い大学生にベーシックインカムとアンチワークを説いておきました。2日で.5単位を確保しときました。普通にもう嫌だ。

もっといろいろあったことを書こうと思ったけど何書こうか忘れた。noteで生きてないあいだいろいろあったはずなんだけどな。書いてないから思い出せねぇ…

最近メモを取らなくても書けるようになってきました。しらん。今がそうなだけ。書きたいことをお風呂でまとめ上げてそれを直接エディタにぶちこんでいるという荒業が可能です。いや、もしかしたら部室でもらったアルフォート(1ダース入り(1ヶ))が効いているせいで極めてちょうどいい量のカフェイン症状が発症しているのかも。かふぇやばエピソードだね!

いそがしいと書けなくなるってほんとなんだね。別にいそがしいなんて言いたくないし、むしろいそがしいなんて言ってるやつは話題作りだし対面会話してるときに自身の希少価値を演出し相手と立つ場が違うことをアピールしているさらに無自覚で内省の習慣がないつまりきみはそういうやつなんだなとしか思ってなかったんだけど、ちげぇわ。いそがしいは自称するからいけないのであって、俺のいそがしいはただ単に純然たる事実なんだわ。書く気力がなかっただけなンだわ。

自分のことを書きたくない。事実なんだけどね。日記を書くことが嫌なのはなんでだろうとずっと気になってはいた。おもしろくないことを書くのが嫌なのかもしれない。これって情報補完の話しにつながりそうだな。思いもよらないところからついてくるもんだ。ちょっと書いてみるか。俺も書く前は何が書かれるかわからないんだよな。お前もきっとなに読んでんのかわからないと思うけど、がまんしてくれ。俺は俺のために書いてる。ここに書くことで、ようやく常に識になるんだよ。

自分のなかの世界観/錯覚のひとつに「完全な情報はある」というものがある。「完全な情報は存在する」んだ。つまり「情報は物ではない」ということになる。これに関しては前に「情報と唯物論」について書いた気がするな。ここで言う情報とは「私の世界における情報」のことだ。既知は既知だ。未知は「  」だ。未だ知らないからな。だが、「未知」という言葉は既知ということになる。情報とは即ち自分。これが僕の世界の世界観だった。前に動画でした宗教の話しや文学カルトとも似通っているかもな。それらはすべて「じぶん」というところへ帰結しているみたいで、結局それは「環世界が閉じている」ということになる。ここから、「他者の視点になって想像なんてできない」や「情報共有を行わない」「隠しごとをしないように必ずどこかでぶちまけてしまう」といった行動となって現れる。サリーアンの実験を知っているか?俺はあれの意図が理解できなかったと言えばわかりやすいだろうか。俺は常に「読者」にしかなれないのだ。感情移入なんてしない。ただ共通点を探しているだけだ。[情報は物ではない]ではない。つまり情報は物であると気付いたのが最近の話し。気づいたきっかけは、どうして俺は書いているのだろう?というところだった。どうして俺は紙にペンで書いているのだろうか。どうして俺は画面にキーボードで書いているのだろうか。どうして空気に指で書かないのだろうか。どうして砂に棒で書かないのだろうか。どうして頭の中だけで考えられないのだろうか。どうして紙が必要なのだろうか。どうして画面が必要なのだろうか。消えてしまったら困るのだろうか。読み返すことを想定しているのだろうか。はたして読み返しているのだろうか。読み返さないのであれば書かないでもいいのではないだろうか。そうしたことを考えた。すると、考えたものを目で見たいから書いているのだということがわかった。すこし飛躍するが、目で見たことしか理解できないのだとわかった。だとすれば、自分が頭の中で勝手にうすやりと考えていることは実は知識ではないのだろうか、と考えた。知識や情報は「どこか」から受け取ったから自分の中に「ある」のだと考えた。知識は無から生まれたものではないということに気付いた。情報は宙に浮いているのではないということに気付いた。情報も因果から逃れられない。自分は未知という物を未知なのだということに気付いたのだ。ここから、[情報は物ではない]ではない、のだと気付いた。情報は、れっきと物としての性質を持っている。もし、[情報は物ではない]と考えたらどうなるだろうか。即すなわち、[完全な情報はある]ということになるのだ。すこし話しをもどす。[完全な情報はある]という錯覚を強めたのはなにが原因だったのか心当たりがある。ミニマリズムだ。ミニマリズムには、情報を重んじる・ないことをありがたがる・しかしインフルエンサーの持っている物を欲しがるという3つの性質がある。そこに少しだけ仏教や禅、老荘の思想を加えたりもする。足るを知るだったり一切皆空だったり。ないことをありがたがる。しかし、ないものが欲しくなる。情報を重んじる。知識を重んじすぎるのだ。そして、物の欲望、物欲を肯定しながら同時に持たないことにもこだわる。結果、自分は所有していないが、世界のどこかに存在しているから大丈夫。俺は捨てたけど、捨てた物はゴミとしてきっと世界のどこかのごみ捨て場に存在している。そういう物を情報として捉える、物→情報という理の流れが生じることとなる。モノの代わりに知識を所有し、それに満足を覚えようとすることがミニマリズムのもたらした影響ということとなるだろう。この物→情報という流れは「在(物)/不在(情報)」の境界を酷く曖昧にしてしまうこととなる。すべての物は世界のどこかにある→すべての知識はこの世のどこかにあるという帰結を得ることになる。思えば、自分は数学のテストで回答を記述することの意味がわからなかった。採点者・出題者は既に回答を知っているのになぜ俺が解答用紙に解説してみせねばならないのか、本当に不思議に思っていた。つまりここかわわかることはミニマリズムは原因ではなく、素から自らにあった資質に合致した思想を重んじた/もしくはミニマリズムをそう解釈することにした、ということになる。すべての知識はこの世のどこかにある。ならば、自分はそれを知る必要はないと思っていた。知りたいと思ったとき、既にその対象は自分のあたまの中に「既知の未知」として存在し、それはもう同時刻にこの世界のどこかに回答が存在してしまっているということになるからだ。知識と情報、そして未知。全知と任意知。自分が知っていること、誰かが知っていること、誰も知らないこと。知識という言葉が曖昧なせいなのだ。知識というものの定義が必要だったのだ。結論が出た。自分は知らないでもいいと思っている。同時に、好奇心/学習/教える、知識に関して素朴な直感、そのままのことばをそのまま感受することができるといった側面も持ち合わせていた。考えてみれば既に全知とは数学などに限った場合によくあった考え方だったかもしれない。

知識とはなにか。全知とはなにか。なにも知らない。なにもしらない。