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あ、夕陽。本当に綺麗だね

夕陽を呑み込んだ
コップがルビーみたいだ
飲み掛けの土曜の生活感を
テーブルに置いて

チノカテ

チノカテ。ヨルシカの曲。この曲のすごいところは開始30秒目。まさにこの瞬間である。とりあえず、30秒だけ。開始から30秒目まで聴いて欲しい、見て欲しい。それでいいから。そこまででいいから。(いちおう見なくても読めるよ!)
https://www.youtube.com/watch?v=Fq55MMfHoJg



あ、








夕陽。

本当に綺麗だね


間。間である。この間が夕陽に気づいた瞬間そのものだ。
作業の手を止めて、少し部屋が暗くなっていることに気が付く。そういえば手元が見えずらかったな、などはじめてそこで認識する。
顔を上げる。
窓を見る。
あ、夕陽。

本当に綺麗だね


なにがすごいか。とりあえず、歌詞を一番はじめから読み返してみる。

夕陽を呑み込んだ
コップがルビーみたいだ

なんと、冒頭の歌い出し初っ端から夕陽というワードが登場している。夕陽を呑み込んだコップ。この表現は別にいい。そこじゃない。見て色がわかるってことは透明のガラスのコップなんだなー、とか、中身は水なのかなー、とか、夕陽ってことは水平線の近くだからコップは窓際だなー、とか、マグカップとかじゃなくてあえてのコップ、ただのガラスのコップなんだなー、とかいろいろ情景が浮かんでくるけど、まあ、べつにそこはいい。

飲み掛けの土曜の生活感を
テーブルに置いて

飲み掛けの生活感。ああ、だからコップなのね、ガラスなのね、そしてあえての水なんだね。ってことがわかる。水を飲もうとして口元にコップを持っていく。夕の陽が朱く染め上げた水。ルビーみたいだな、という素朴な感想。考え事でも意見でも、もちろん主張でもない。日常の些細な気づき。集中モードのアタマはこれに気づかず、勝手に処理している。わたしはそれを流れる束として知覚するだけだ。
そして生活感という単語。おしゃれ界隈では嫌われていそうだ。生活感のある部屋なんてインスタの写真にコメントしたら悪口だととられるに違いない。だがむしろ生活感無いわーなんてコメントも、演出してんじゃねーよ、みたいな含意をもって陰口に使われていそうである。そしてヨルシカの曲なんてまさしくオシャレな JC & JK & JD & OL とかが聴いてそうなイメージだ。とりあえずドラマにはヨルシカ使っとけば、女こどもは「エッッッッ…………モ…………」とかいって気絶昏倒するだろ、みたいな雑なスパイスとして使われまくった。その結果、ヨルシカは今度はおしゃれな生活を売り出した。いやここにはきっとコンポーザーのn-bunaの心情の変化ガーとか成長ガーとかまぁ、めんどくさいヨルシカファンの皆様は一家言あるだろうが我慢して欲しい。ヨルシカはそういうのじゃない?深い文学性?わかったわかった。ちょっと抑えてくれ。俺だって我慢してるんだから。

閑話休題。土曜。ここも大事なポイントだ。土曜、休みの日。イコール休日は趣味でまったり。まったりなんて言葉を聞いた皆さんは今ごろ胃がもったりしてきただろうが、吐くのは向こうにやってほしい。時間をいっぱい使って趣味に没頭。気づいたら夕方。こんなことが出来るのは芸術家か無職か学生、あとは土曜日しかないのだよ。

花瓶の白い花
優しすぎて枯れたみたいだ
本当に大事だったのに
そろそろ変えなければ

意味深な歌詞だ。ここもまあ、この曲を通して何回も出てくるフレーズになるが、まあ、ここもいい。曲の後半へ行くにしたがって扱いが変わったりPVでは花が散ったりするが、そこはそれっぽい人がそれっぽく考察してくれてる。YouTubeのコメ欄なんて見てたらそんな奴らが跳梁跋扈だ。いまさら取り立てて言うことなんて残ってないから華麗にスルー。俺が言いたいのはここじゃない。

(るるるるるるるー)
ふっふーんふーんふーんふーんふーん
(るるるるるるるー)

ここでメロディパート。花瓶を見て考え事をしている自分。作業に集中している自分。花が枯れたなーとか考えてる自分。全部自分なのに意識するまで自分が考えていることに気づかない。きっと皆さんも集中してるときにこのような経験をしたことがあるはず。集中しているとき、考えを自覚するまでのラグの話。それを歌詞の間と日常感のあるPVで演出している。

ここだ!

そう、まさにここが一番のキモである。たっぷりのタメ。そこで「あ、」という感嘆詞。ここで冒頭の解説へとつながる。

あ、夕陽。

お気づきだろうか?この人は既に夕陽を知覚している。コップがルビーみたいだ、などという感想まで浮かべ、コップを置き、花瓶を見て枯れた花を変えないとな…などと考えているのだ。このとき既にコップのルビーのことは頭にはない。意識が脳が、在るがまま自然に思惟活動を行っているだけだ。彼はまだ夕陽を直接知覚していないのだ。そして花瓶のことを考え終えたあと、またすこしの間作業へと戻る。ここが(るるるるるるるー)である。そしてふと顔を上げる。たっぷりと時間をかけた後に。すでに知っているのに。気づいていたはずなのに。その目は初めて斜陽を捉える。

あ、夕陽。

本当に綺麗だね

この、気づいてるけど気づいてない。この表現がすごすぎる。間を、音楽を、あいだに歌詞を、途中に鼻唄、すべてを使って表現している。同じことを2回言わせるために。そしてこれはそのまま没頭の表現にもつながっている。すべてを省みないような。ただ赴くまま進んでいるような。そしてその結果、どこかで大切なものを違えてしまったのだ。

自分がわかったのはこの表現だけだ。この曲を何回も何回も聴いていたから、夕陽という表現が2回重複していることに気づいた。そしてそれが表す意味さえも。
本当にすごい。これはきっと文字だけでは表現できないし、音楽だけでもきっとできない。


ヨルシカの歌詞、ほかにもすごいのがあるから。俺のおきにいりもまとめてある。よかったら是非。