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陽炎

※昔、複数人が集まって連作として書いた冒頭のお話です。


「残念だったね。雨だなんて……」
 天文学サークルの合宿に来た初日は雨だった。
雪であってもおかしくはない二月の雨。空気が凍てついて、ふわりと漂うような白い息を吐きながら、ゆりは寒そうに身震いしている。
指先が冷えて辛いのだろう。彼女は水筒に入れてきた温かいミルクコーヒーをコップに注いで少しずつ飲んでいる。
 車の中でも寒さにこたえる。
耳まで真っ赤にしている彼女が可愛そうで、俺は自分のマフラーを彼女に巻いてあげた。
「帰ろうか」
 車のエンジンをかけて、ラジオをつける。彼女は天気予報を気になるのか、チャンネルを変えながら黙ってラジオを聞いていた。
 他のメンバーはすでに後ろで眠りこけている。山頂についた途端雨だなんてついてない、なんてひとり言をぼやきながら、少しすねたような顔でラジオを聞いている彼女の頬をつねった。
「そんな顔するな。今日は運が悪かっただけだろ?」
 車を発進させた俺の顔をにらみながら、ラジオのチャンネルボタンをカチカチと鳴らし、ある番組で止めるとにやりと笑った。
 リスナーから集められた怖い話を読んでいく芸人のラジオ番組。一瞬、顔がピクリとひきつった。
「ゆ、ゆり……。どういうつもり?」
 思わず、どもった俺をあざ笑うようにゆりはボリュームを上げた。
 怖い話が大の苦手の俺にゆりが時々する嫌がらせ。消そうと手を伸ばすも、手を掴まれて阻止してくる。あんまり本気で振り払って事故でも起こったらと、手を引っ込める。
俺はただビクつきながら聞くことしかできなかった。
「……ひた、ひた。音がするんです。誰もいないはずの家の階段から……。おかしいですよね。しかも下りたり登ったりを繰り返してる……」
 ラジオの声なんか聴きたくないのに、聞かざるおえない。左手はぐっとゆりによって押さえつけられている。ドッと背中に汗が流れる。冬なのに寒いのに、緊張で息が上がる俺を見てゆりはニタニタ気持ち悪く笑ってる。
「ゆり! いい加減にしろよ!」
「やだ、私楽しみにしてたのに雨なんだもん」
「俺のせいじゃないだろ!」
 半分怒ったように怒鳴ってもゆりはこんな調子だ。付き合う前に彼女に抱いていた感想は、純粋で可愛いだけの女の子。そうだと信じて疑わなかったのに、蓋を開けてみてびっくり。――とんだ性悪女だった。
「ドンドン!!! ……ついには階段を走りだしたんですよ。そのあまりの異常な足音に、怖くなった私は恐怖のあまり窓から屋根に出て家から出ようと窓に近づいたんです……。」すると、窓にべったり髪の長い女が張り付いていたんですね。あまりにも突然の事で悲鳴さえ上げられませんでした。その間にも階段を上る音は鳴りやまない。窓に張り付く女と、階段を上り下りする誰か……。逃げるにはどちらかと鉢合わせするしかない」
 ラジオの芸人の語り手が上手くて、俺は涙目になりながらゆりに頼んだ。
「頼むから消して……」
 震えた声に気分をよくしたのか、ゆりはスマホのライトで自分の顔を下から照らし、俺にこういった。
「私が死んだら化けて出て散々怖がらせてあげるね」
 なんて意地の悪い女なんだろうと俺は冷や汗を垂らしながら思った。
ゆりは性格が悪い。それでも、冬生まれの俺の誕生日には、寒空の下アパートの前で待ち伏せて顔を真っ赤にしながらプレゼントをくれた。同棲し始めた当初、風邪をひいた時には、不器用ながらもおかゆを作ってくれて、そばにいてくれた。
俺にとっては最愛の人だった。
けれど、この後に起こるトラックの接触事故で彼女は死んでしまった。
前方の蛇行運転になっているトラックに気づいた時には、もう事故に巻き込まれていた。
彼女は俺にかぶさるようにして背骨と心臓、肺をつぶし、肺がつぶれ圧迫されたことによって、口から大量の血を吐いて、彼女は死んでいた。
運転席の俺は直撃を免れ、鎖骨が見事に折れてはいたが命に別状ないほどで助かっていた。事故の原因は、運転手の酒帯び運転。
逆恨みだとわかっていても、淡々と現場の状況を語る刑事が憎かった。傷に塩を塗るように事故のことを語らなければならないことがたまらなく嫌だった。
何度も何度も。
「間違いないか?」
「それは本当か?」
無常に聞かれるその度、俺は心の中が窒息しそうなほど締め付けられて、ちょっとずつ苦しみで気が遠のいて時間が止まっていくように感じた。
彼女は酷い姿で車の中から引きずり出され、即死状態。俺はそんな熱を失い、赤い液体で染まった彼女を腹の上に乗せてのびていただけ。
死体は見なかった。
見なければ、死んだことを嘘だと思うことが出来るから。
葬儀にも出なかった。
決定的な記憶を残さなければ、嘘だと信じることが出来たから。
俺は彼女に振られてそれ以来会ってもいない、彼女はどこぞの誰かさんと幸せに……なんてそんな空想を頭の中に浮かべて、このどうしようもない喪失感をごまかしていた。
そのほうがよほどマシだということに、彼女が死んでから気づいた。
同棲していた部屋に残った遺品を家族が引き取りに来たが、俺は彼女の遺品を差し出すことができなくて、ずっと家から出なかった。
ゆりが死んで二か月たった頃だった。鏡に映った自分の背格好がゆりに似ていることに気付いた。それだけじゃない。飯も食わず痩せた体つきは女性のものに近くなっていた。
ぼんやりと浮かんだその考えは、自分を一瞬にして支配して思考を奪う。
「そうか……、俺がゆりになればいいんだ……」
 俺がゆりになったところで、事実は変わらないことには気づいていた。こんなこと無意味だと思い知らされるだけだと思った。
 けれど、代わりに生きている、そう思うことだけが俺にとっての救いになると思った。
 それから一年、俺は髪を伸ばし、ゆりが着ていた服をきてゆりゆりと名乗ってゆりとして生きている。

「ああ、どうしよう」
 大学のカフェテリアでカフェオレを飲みながら、俺はため息をついた。
 つい先日の事だ。アパートの大家から連絡があり、水道管のトラブルで住んでいた部屋が住めなくなってしまった。
 帰宅した時には部屋は水浸し、何から何までダメになってしまって、幸いなのは保険がきくということだけ。
それでもすぐにでも新しく部屋を探さなければ俺はホームレスだ。
「お金もないのに、最悪……」
 いくら奨学金をもらっていてバイトをしているからって、お金に余裕があるわけじゃない。むしろ、日々の生活に困るぐらいには貧困している苦学生だ。
 自然とため息は深くなった。
「おっ。隼人じゃん!」
 声をかけられ、とっさに顔を上げると友人は田中がこっちに向かって手を振っていた。
「ゆり……」
 目をそらしてぼそっと呟いた声に反応したのか、田中は優しく微笑んで謝ってきた。俺は大学でさえゆりの格好で通っている。当然、好機の目に晒されることは明確だった。
 けれど、そうでもしないと自分を保っていられなかった。
 田中はそんな俺を受け入れ、そっとしておいてくれた唯一の友人だった。
「お隼。どうした? そんな暗い顔して」
「俺はお隼なんて名前じゃない。ゆりだ!」
 からかわれて咄嗟に出た俺という言葉にぞっとした。咳払いして必死に取り繕う。
「私、ゆりなんだけど」
 そういった俺を見て、田中はその大柄な体を大きく震わせて笑った。
「ははっ、お前にゆりは演じられないよ。何故ならゆりはお前より百倍、性格が悪いからな」
「田中、ふざけるなら帰れ」
 笑わずに言った。自分だって悪口は言っていたはずなのに、なぜか許せなくて唇をかんだ。
「ふざけてないよ。でもまぁ、しょうがないよなぁ。気が済むまでやればいいさ。俺はいつでもお前のダチだから、困ったときは相談しろよ」
 田中も笑わずに言った。ふざけた奴だけど、田中は俺とゆりの共通の友人でもあったから、心配なんだろう。それをありがたいとも思うけど、現実に引き戻される気がして――なんだか少し怖かった。
「ありがとう。……じゃ、安ければどこでもいいから部屋紹介して」
「えっ? なんで」
「アパート、水道管のトラブルで住めなくなっちゃって」
「あ、そうか。災難だな。まぁ、知り合いの不動産屋に連絡してみるわ」
「ごめん、できれば今すぐにでも住める部屋にして」
「おー、わかった」
 部屋はその日の昼にも紹介された。いくらネットワークが広いとはいえ、ここまで早く部屋を手配してくれた田中に俺は心から感謝した。
「即日入居でもいいですからね」
そういってくれた大家さんにも感謝した。
 けれど、荷物を運び入れ、疲れて眠ったその日の深夜二時隣の部屋からの物音で目が覚めた。
 女性の声だろうか、大きな声で何か言っている。そして何かを落としたようなドンッという音に俺は思わず飛び起きた。
 ぎしぎしと何かが軋む音がしてから、途端に静かになる。
 きっと隣の部屋では、飲み会でもやっていてどんちゃん騒ぎをしているだけ。それでさすがに騒ぎすぎたと静かになっただけ。
その時はそう思っていた。
 次の日、これを毎晩でも繰り返されたら困ると俺は大家さんに注意をしてもらえないかと昨日のことを伝えた。
 大家さんは目を見開いて少し困ったような顔をして言う。
「そうなんですか……。でも、あの部屋誰も住んでいないんですよ」
「えっ……」
 昨日あんなに騒がしかった部屋が誰も住んでいない。そんなわけがない。目が覚めるほどの物音。錯覚だったわけがない。――背中に嫌に冷たい汗が流れる。あの音、一体なんだったんだろう。嫌な予感がしていた。

 その日の晩、夢を見た。あの事故の夢だ。
 ゆりは怪談のラジオをつけて俺を笑っている。俺は怖くて震えていたはずなのに、なぜだか笑っていた。
「私が死んだら化けて出て散々怖がらせてあげるね」
 ゆりはそのあと、自分が死ぬことを知っていたんだろうか? だからあんなことを言っていたんだろうか?
「ゆり、本当に化けて出てきてくれる?」
 夢の中でゆりは珍しく困ったように笑っていた。
 目が覚めると、隣からまたドンドンとけたたましい音が聞こえた。あんな夢をみた後だからだろうか。隣にはゆりが俺を怖がらせようとしているみたいに感じた。
 そっと隣の部屋の壁に耳をあてた。
「ゆり?」
 返答はない。いないはずの住人が音を立てているんだろうか? その人は誰で、何のために音を立てているんだろう?
私が死んだら化けて出て散々怖がらせてあげるね――。
その言葉に縋りつきたくなった。

 ゆりは女性にしては身長が高く、すらりとしていて美人とも可愛いとも取れる容姿の女の子だった。
「ミュールはくの、嫌いなんだよね」
「ん? なんで」
「隼人より大きくなっちゃうでしょ?」
 いつもこんな意地悪ばかりをいう性悪女だ。それでも好きだったのだ。彼女の意地悪で優しいところが誰よりも何よりも大好きだったのだ。
 化けて出てきてくれるなら、どれだけいいだろう? 幽霊でもいいから会いたいと思うのはいけないことなんだろうか?
 よく田中から「前を向け。その方がゆりは喜ぶ」と言われる。でも、今の俺にはどちらが前でどちらが後ろなのかわからないのだ。
 ゆりのために、ゆりを忘れてのうのうと生きることは薄情だとさえ思う。きっと逆の立場なら俺はゆりに俺を忘れて生きろと言えたのかもしれない。
 その方がいい。一生悲しまれるぐらいなら俺は胸を張って忘れろと言えるだろう。
 でも、残される側の立場になってみてわかる。
 忘れたくない。前を向けなくていい。人生を一生後ろ向きで歩いたっていい。どれだけ苦しんでも忘れたくない。
 それはもう愛情じゃなくなって、ただの執着になっているとわかっていたけど、もう俺にはそれしかなかった。

 隣の部屋にゆりがいる保証なんてどこにもなかった。それでも確かめずにはいられなかった。ゆりの好きな香水に、ゆりの好きな襟の黒い花柄のワンピースを着て何度、大学までの道を歩いただろう。
 喫茶店が並ぶゆるい坂の桜並木が花びらを散らす。それがなぜだかあの日の雨に見えた。あの日から全てが変わってしまった。
 ゆりになろうとした。俺が死んだと思いこもうとした。けれど、ダメだった。
 幽霊でもいい。会いたいと思うのは間違っているのだろうか? 
 死んだように生きたこの一年は、息を止めているみたいに苦しいものだった。失くしたり、得たりを繰り返して生きるのが人生なら、あと何度こんな思いを繰り返せばいいのだろうか?
 そんなことを頭の中で繰り返しながら、打ちのめされていった。
 無意識だった。
 部屋に帰れば音のする隣の部屋の壁に座って、考えていた。もしゆりなら、ゆりだったなら、その考えが拭いきれなくてどうしても隣の部屋を覗きたくて、俺は隣の部屋のドアまで来ると、覗き穴を覗き込んでみた。
 ――見えるわけがない。
 見えたのは暗い色だけ。きっと部屋の暗がりの色だろう。それ以外は何も見えない。
 俺はおとなしく、自分の自室に戻った。
 もう、これしかないと思った。大家さんにあとで弁償させられるだろう。あとで俺自身なにをやってしまったんだと後悔するだろう。
 でも今の俺にはこれしかなかった。
 ホームセンターで買った小さ目のドリルは意外にずっしりと重かった。工具買うのなんて初めてだ。
 買った後で、穴をあける途中で大家さんに気づかれてしまうのではないかと思った。どんなに小型ドリルでも壁に穴をあけようものなら、振動や音で気づかれてしまう可能性がある。
それでも他に中を覗く方法を思いつかなかったから、それを実行することに決めた。
 昼間の誰もいない時間を狙った。
 俺は大学を休んで、掃除機の電源を入れた。気休めだと思ったけれど、音を隠すにはちょうどいいかもしれない。
 掃除機の騒音を鳴らしながら、ずっしりと重い工具の電源を入れると高い音をあげてドリルが回りだした。
 これならごまかせるかもしれない。鈍い掃除機の音で高い音はかき消されてよくよく耳をすまさなければ聞こえないだろう。
 俺は額に汗をかいていた。正直、何をやっているんだろうと思う。せっかく借りれたアパートの部屋に傷をつけるようなこと、まともだったらしない。でもゆりが待っているかもしれないと思ったら、やるしかないと思った。
 そっと壁にドリルをあてた。振動が手に伝わってきて不思議と頭が冷静になっていく気がした。
 穴をあけたら次は、額縁を買って穴を隠そう。覗いて誰もいなかったら、大家さんに謝って弁償しよう。いろんなことが頭を駆け巡った。
 普段は気の小さい俺がなんでこんなことしてるんだろう? バカげたことだとまで責めだした頃、スカッと空回る感覚がして、貫通したとわかった。
思ったより部屋の壁は薄かったようだ。
俺は掃除機とドリルの電源を落とした。
電源を落とした瞬間、ドクドクと体中の血がめぐりだしたのがわかった。俺はその時、きっとわかったんだと思う。
向こうの部屋に誰かいると。
震える手ではドリルを持ったままでいるのが精いっぱいで、心臓の音が耳までうるさいぐらいに鳴り響いていて、それは喜びの鼓動なのか、恐怖に対しても鼓動なのかの判別もつかなくて、心を決めるまで時間がかかった。
無音が続く部屋の中で部屋の前の電柱に止まっていた鳥が羽ばたいたと同時に、我に返った。
ゆりに会いたい、それだけのために穴をあけたんだ。幽霊でもいい。ゆりなら怖くない。
俺は覚悟を決めると、生唾をゴクリと飲み込んで中を覗いた。
見えたものは白い……足? だろうか。それがひたひたと歩いてくるのが見えた。ゆりのものかは判断がつかない。不思議と恐怖はない。
だんだんと足は近づいて壁までくると、しゃがみこんで座った。顔はみえないままだ。
不思議と恐怖は感じなかった。ただなんとなく、映像を見せられているような気分になった。ずっとしゃがんだ人を見ていると、壁を叩かれた。
コンコン、コンコン。
それは驚かせようとしているというよりも、隣人へのあいさつに来たとでもいうような軽快なノックだった。
俺は一瞬、身を引いて壁にふれた。
この向こうは誰もいないと大家さんは言っていた。でもいる。確実に。いたんだ。そう思うと、途端にゆりだとしか思えなくなって愛おしくなった。そっともう一度、穴を覗くと目が見えた。
ゆりはアーモンドのような大きな瞳だったけれど、確かめるほど目の全体は見えない。黒目しか見えない。それでも、目があった瞬間嬉しそうに目が細くなった。
ああ、ゆりだ。俺をみて笑ってくれた。
きっとこの部屋の向こうにいるのは、ゆりに違いない。
嬉しさのあまり涙が出た。ぼたぼたと大粒の涙がフローリングに落ちていった。ぬぐっても拭ってもあふれてきて、俺はその穴から見えるその黒い瞳を何度も覗き込んだ。

 その晩は穴の開いた壁に布団を寄せて眠った。向こうにゆりがいる安心感で、その晩はよく眠れた気がする。
 ゆりの夢をみた。
 外は雨で、二人寄り添って何も話すことはない。
 ゆりは幸せそうに笑って、俺も幸せそうに笑っている。それだけで久しぶりに穏やかな気持ちになれた。それなのに、チャイムの音が俺とゆりだけの空間に鳴り響く。
 何度も何度もしつこいぐらいにチャイムを鳴らすその音に俺はしぶしぶ玄関に向かうしかなかった。
 覗き窓をそっと覗きこんでみると、そこには血に塗れたゆりの姿があった。
「……隼人ってバカだね」
 そういわれて、ぞっとした。
 部屋にいるゆりはゆりじゃなかった。ゆりはいつも俺をバカにするみたいに笑う。あんなふうに穏やかに微笑みかけたりしない。
 でもこのゆりは?
 俺をバカだという、この血まみれのゆりはみたこともないような悲しそうな顔で怒っている。
 どちらが偽物でどちらが本物だと問われても、今の、過去に縋ろうと必死なだけで何も見えていない俺にはわからなかった。
「隼人、私言ったよね?――って」
「えっ?」
 肝心な部分が聞こえなかった。
「だから――って言ったでしょ? だったら、どっちが本当の私かわかるはずでしょ?」
 やっぱりだ。やっぱり聞こえない。
 血に塗れたゆりはだんだんと色が薄れて消えていく。
「隼人?」
部屋から聞こえたのは、ゆりの声だった。
ドアの向こうのゆり、部屋にいるゆり、どっちだ? どっちが本当のゆり?
 ノイズ混じりに聞こえるドアの向こうのゆりの声は、どんどんと小さくなっていく。とっさにドアを開けようとすると、部屋にいたゆりが「やめて!」と叫んだ。
「ずっとここにいよう? ね?」
ゆりが駆けてくる。ゆりが消えていく。
どっちだ? どっちが本当の――。
消えていくゆりの声が途端にはっきり聞こえた。冷めた声ではっきりと。
「もう助けてなんかあげない」
 俺は目が覚めた。
 背中にパジャマが張り付くぐらいに汗をかいていた。手が小刻みに震えている。ただの夢だと信じ込もうとしたけど無理だった。
 あれは、ゆりだった。
 どちらかはわからない。けれど、確かにあの二人のうちのどちらかは本物のゆりだったのだ。心の中でゆりに会えた喜びと寒気のするような冷たい声が離れてくれない。俺はそっと昨日あけた穴を覗いてみた。
 誰もいない。昨日はいたのに?
 耳の中であの冷たい声がこだまして、俺は呆然と穴を覗くことしかできなかった。

「で、話ってなんだよ」
 あの夢を見てから、俺はいてもたってもいられなくなり田中を読んだ。田中は何も言わず自宅まで北はくれたが、苛立ちが隠せないようにため息をついて俺を見ている。
レポートで忙しい時期の深夜に呼び出されれば誰だって不機嫌になるかもしれない。けれど、それでも家に来てくれた田中には頭が上がらなかった。
「お前、幽霊って信じる?」
「今日は女言葉じゃないんだな」
 俺の言葉を遮って、少し馬鹿にしたように言った友人に思わず声が荒くなる。
「そんなことどうだっていいんだよ」
 田中は少しだけあきれた様子で、ため息をついた。俺は淹れたてのコーヒーを机に置くと、深く呼吸をし、時計を見た。
「今ならいるかな?」
「何がだよ」
 田中は不機嫌そうな顔をして時計をみた。時刻は午前2時まわったところだ。俺はそっと、壁のポスターを剥がしてその下に隠してあった穴をあらわにした。
「えっ? なにこの穴?」
「覗いてみて」
「はぁ? 何言って」
「隣は住んでない。大家さんが言ってたんだ」
「ますます意味わかんねぇよ」
 激昂する田中をよそに俺だけ妙に冷静なのが、なんだかおかしい気さえした。もしかしたら、俺はおかしくなってしまったのかもしれない。
「覗けばわかるから」
 嫌になるほど冷静な俺を見て、田中は生唾をごくりと飲み込んで黙り込んだ。
「話すより、みた方が早いから」
「……わかった」
 田中は覚悟したように穴を覗いた。秒針がカチカチと鳴っている。そう、確かに時は先に進んでいるはずなのに、時間が止まったように感じた。秒針の音さえ霞むような沈黙。俺は少しだけど後悔した。
 田中にゆりが見えなかったら、病院に連れて行かれるかもしれない。
 この家から引きはがされるかもしれない。けれど――。確かめずにはいられなかった。
 あれは本当にゆり、なのかと。自分ではわからない。だから、田中を呼ぶしかなかったのだ。
数秒経って田中の流した汗が地面に落ちたわずかな音で、田中にもゆりが見えたのだとわかった。壁からゆっくりと顔を離した田中から発せられた言葉が頭の芯を冷たくした。
「……今すぐ、ここを引っ越せ」
「嫌だ」
 その言葉に目を見開いた田中は、冷たい声で「なんで?」と聞いた。
「ゆりかも、しれない……から」
 次の瞬間、俺は田中に殴られた。あまりの衝撃で、視界がぶれてしばらく立つことも叶わなかった。
「正気か? お前にはゆりとあれの区別もつかないのか? あれはゆりじゃない。あんな……、あんなふうにゆりは笑わない!!」
 本当はわかっていた。そうだ、あれはゆりじゃない。本当のゆりはあんなに穏やかに笑ったりしない。いたずら好きで、人を困らせてばかりで、俺を見るとき、本当に嬉しそうに頬を染めていたずらっぽく笑うんだ。
 そう、あれはゆりじゃない。ゆりじゃないのに――。
 一人ぼっちの地獄を見た一年だった。たった一人の恋人がいなくなっただけなのに、全てががらりと変わってしまった。
 一人で見た景色、一人で歩いた道、一人生きている孤独感。死ぬべきだったのは俺だったのに、どうして俺が生きているんだろう?
 誰一人俺を責めなかったけれど、俺自身が責めることをやめなかった。
「いいか、引っ越せ。今すぐに、あれは、あの化け物は――」
「いい加減にしろ!」
 その瞬間、自分の思考と体がバラバラになった。安心したかったはずだった。あれはゆりじゃないと他人に言ってもらえば諦めがつくと思っていた。それなのに、心と体がちぐはぐで、思っていることと口が別の事をしゃべりだす。
「あれはゆりだ。ゆりなんだ! 俺に会いに来てくれたんだ。だってそうだろ? ゆりは俺を怖がらせにやってくるって、死んだら化けて散々怖がらせるって、言ってたんだ。言ってたんだよ!」
 そう怒鳴ると田中は、悲しそうな顔をした。その表情が夢の中のゆりと重なって、ゆっくりと理解した。
 本当のゆりは今の俺を見て悲しんでいるんだと。
 ぼたぼたとあふれ出る涙が空しさを伝えてくる。そうだ。もう何も意味をなさない。想い続けても、愛し続けても、生きているからこそ意味のあること。
 それなら、心に焦げ付いたこの想いをどうすれば消してしまえる? 忘れ去れる? ただ悲しいのだ。悲しいって涙が嗄れるまであの時、泣けばよかったんだ。
 それが死んだ彼女にできる唯一のことだったんだ。
 悲しくて呻いた声が大きくなる。一度だけでよかった。会って言いたいことがあったんだ。
 田中はただ棒立ちになって俺を見ているだけだった。どんな言葉も意味をなさない。それを田中は理解していたんだろう。
「ふふふっ」
 声が聞こえた。ゆりじゃない。この声は――隣からだ。
 田中が俺を無理やり立たせた。
「ここから出るぞ」
 俺は何も言えずにただ従うことしかできなかった。
 急いで部屋のドアを閉め、台所と一体化した玄関に向かうと、田中は部屋から出るために玄関のドアノブに手をかけたが、開錠してもドアが開かない。逆側からすごい力で抑えつけているかのようにぴくりともしなかった。
「くそっ」
 小さく悪態をついた田中は、俺の方をむいてこういった。
「こうなったのはここを紹介した俺のせいでもあるから、怒らない。怒らないけど、ここの件が片付いたらゆりの墓に謝りに行け。たぶん、ゆりは怒ってるから」
「……ああ」
 ようやくそれだけ言葉にすると、田中はどこかに電話をし出した。
「もしもし? ああ、よかった。起きてたんだ。……ああ、うん。そう。えっ? 代われって? ああ、うん。今、話せるかな……?」
 田中はそういうと、電話をスピーカーにして俺に向ける。
「代われってさ」
 おそるおそる電話に声をかける。。
「……もしもし?」
「もしもし、隼人さんですか? 私は田中の知り合いの泉というものです」
 凛とした声。ハキハキとした物言い。誰だかわからないが、女性だろうか? ハスキーな声ではあるが、物腰の柔らかな口調でなんとなく女性だと思った。
「どなたでしょうか? 俺は何もわからないで電話代われって言われただけで……」
 もごつくように俺が言うと、受話器の向こう側で控えめに笑う声が聞こえた。品のある笑い方だったはずなのに、ぞわりと肌が粟立つような感覚に襲われる。
 夜の視界のない海の中で波にさらわれるような、底の見えない恐怖。彼女から冷ややかで残酷な鱗片は一切感じられないのに、本能的な部分で気づく。彼女はなにかがおかしいと。
 冷ややかな刃物が気づかぬうちに首元に宛てられ、いつその刃が皮膚を裂くかわからないようなそんな恐怖。
 思わず生唾を飲み込んだ。
「私は、あなたのような面倒事に巻き込まれた人間の手助けをするお仕事をしています。あなたに非があるのなら手を貸すことはしませんが、今回あなたは付け込まれただけのようですので」
 泉さんがそういうと、先ほどの感覚は消えうせていた。不思議な感覚に戸惑いながらも、深呼吸して心を落ち着かせてから、俺は覚悟決めた。
「どうしてこんなことに? ここから出るにはどうしたらいいんですか?」
 今気が付いたが、足もみっともなく震えているぐらい俺は怯えていた。彼女だったら嬉しいなんて思いはもう気持ちから消えていたのだ。
「あなたは、彼女が人を殺したところを見ましたか?」
 返答に質問で返されて一瞬言葉を失ったが、気を取り直して聞き返した。
「殺した? それってどういう」
「彼女は強姦され、その相手を殺し自殺した女性です。そして今もその場面を繰り返している。……普通、殺人を犯した現場を他人に見られたらどうしますか?」
 生唾をゴクリと飲み込んだ。俺も田中も答えがわかった。
「俺は見てない。隼人、お前は?」
 今まで黙っていた田中が落ち着いた口調で聞いてきた。
「見てない」
「でも相手は見たと思ってるかもしれませんね。穴開けてますし」
 一瞬、どうして見てもいないことを知っているのかと疑問が浮かんだが、早くここから出たい一心であえて聞かないでおくことにした。
「そこから出れない以上、私が行くまで時間を稼ぐ必要があります。どうせなら……死んだふりでもしてください」
 臆面もなくそう言い放った言葉に頭が白くなる。
「えっ? 死んだふりって……。え……」
戸惑いを隠せず、動揺していると田中に背中をぽんと叩かれた。
「つまり、どういうことなんだ?」
 田中は泉さんに問いなおした。
「よく、怪談とかで気絶していたら襲っていたはずの幽霊がいなくなっていたって話聞くでしょう?」
「えっ? ああ……」
 思い当たることを言われて、俺たちは顔を見合した。
「それはね、肉体を媒体にして魂を異空間に転送したからなんですよ。寝ているときはいわば仮死状態。肉体は生きていても、傷つけ、地獄に引きずり込む魂が空の状態なんです。だから手出しができない。最悪気絶してください。そうすれば、手出しできませんから、でもそんなに簡単に気絶なんかできないと思うので、私が行くまで寝たふりでもして誤魔化してください。たぶんそれで大丈夫でしょう。だって――」
 彼女が続きを言おうとした瞬間、スマホの電源が突然切れた。
「はっ? えっ、まだ充電あったのに!」
 何度もスマホをいじって電源を付けようとしたが、つかない。いらだちと恐怖で田中の方を見た瞬間だった。
 ぺちゃ、ぺちゃ、水にぬれた手が這う音が近づいてくる。
「どこにいるの? ねぇ」
 低い声が鼓膜を這うように直に声が聞こえてきて、思わず息づかいが浅くなった。壁の穴から液体のようにするりと流れ込んできたような、そんな水音と生臭い鉄の匂いがあたりに漂う。
 部屋の中を歩いている。
「おい、隼人。目をあけるな。絶対、あけるな」
 無言で頷くしかできない。
 俺たちは屈みこんで目を閉じた。何も見えない状態で、ぺちゃぺちゃという這いつくばって地面をぬるぬると這うような水音が響いてる。
心臓がすごい音を立てている。ドクドクと早鐘のように鳴る心臓の音を静まれと念じながら、じわじわと額に汗がうかぶ。痛いぐらいに脈動する体が汗をかいて、鼓動を鳴らす。どうしよう、こんなんじゃバレる。
 部屋の中を探し回っているのか? 音が遠ざかったり、近づいたりを繰り返している。気の遠くなるような時間がたった。冷や汗が額を流れた落ちた瞬間、音が止んだ。
「おい、もう目をあけていいぞ」
 田中の声だ。俺はほっとして目をあけようとして、ふと我に返り思った。
泉さんが来たわけでもないのに、どうして田中は目をあけていいと思ったんだ?そんな浮かんだ疑問は水滴を落とした水面のように波紋として広がり、そして言いようのない不安に変わった。
 本当は気づいているんじゃないか? この女は俺を騙して起こそうとしているのではないか? バレている? でもわからないから騙そうとしている?
 どうすればいいんだ? もしでも、本当に田中なら目を開けるべきなんじゃ。
「おい。いいって言ってんだろ?」
 その間にも田中は俺に話しかける。どうしよう、どうするべきだ?
 あの女なのか? 田中なのか? わからない。少しだけ――。
少しだけ薄目を開けて、確認すればいいんじゃないか? 少しならバレない。きっと、少しだけなら――。
「隼人!」
 その声に俺は思わず、目を開いてしまった。
 ドンッという俺の鈍い心臓の音が警報を鳴らす。
瞼を開けると、そこには至近距離で女が田中の首を絞めているのが目に入った。
苦しそうに呻き、顔を歪ませる女は田中の顔を覗き込んで、舌なめずりしながらニタニタ笑っているのだ。
声がでない……。
足が縫い付けられたように動かない。無意味な言葉しか声が出ない。
「あ、ああ……」
みっともない声を出した瞬間、女はこちらを振り返った。あごがカタカタと音を立てるみたいにして女は笑う。声にならない喜びを殺意と一緒に向けてくる。
 ああ、俺。この女に殺されるんだ。
 女は長い髪を振り乱して、まるでトカゲのように這いつくばったまま、顔を上げて破れかれ穢されたままの血の付いた足と殴られた痣の頬を俺に見せつけて言うんだ。
「やっぱり起きてたんじゃない」
 目を細めるその顔が、穴からのぞいたあの瞳にそっくりで。本能が告げた。死ぬんだと。唇は言葉を紡げなくなった。
 恐怖で言葉が出ない。怖い、怖いと涙が自然と流れた。
 死にたくない、死にたくない。頭にはそれしか浮かばない。ゆりにさえすがって、神様なんか信じてないのに、都合のいい時だけ神様にすらすがりつく。
 惨めったらしく、死にたくないとはっきりとした死の輪郭に触れて気づいた。
俺はまだ、死にたくない。
あんなに、一緒に死ねたらいいなんて思っていたのに、ゆり――俺身勝手だった。ごめん。ごめん。
目の前に迫る、人の形も忘れ原型もとどめていない化け物を前に、死を覚悟した。
その瞬間、懐かしい匂いが頬をかすめた。
「隼人、これが最後だからね」
耳元で彼女の声を聞いた気がした。それからの記憶はない。気が付いたら、俺も田中も知らない家の部屋で、寝かされていた。体を起こした瞬間、頭がズキリっといたんだ。
「起きたんですか?」
 着物を着た妙齢の女性がそっと開けたふすまから顔を出して俺に、ほほ笑んだ。襖を美しい所作で閉めると、盆にのせた急須に緑茶を注ぐ。
「……なにがあったんですか?」
 俺にはその女性が泉さんであることがわかった。声が電話と同じだし、……やっぱり、変な感覚がする。
 いつも命を握られてでもいるような、そんな緊張感。
泉さんは静かな口調で俺に向かっていった。
「よかったですね。ゆりさんが助けてくれたんです。でも、もう逝かれました。怖がらせるために血まみれで出たのに、隼人怖がらなかったから面白くなかったって怒ってましたよ」
俺は思わず笑ってしまった。ゆりらしいと――。
 
 それから俺は泉さんのところのお手伝いをすることになるのだが、それはまた別の話。

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