小説 咲かないまま眠る君へ
同い年の少年、伏見奏太に妹が生まれたと彼に手を引かれて家に招待された。興奮覚めあらぬ奏太の鼻息をうっとおしく思いながら、僕は初めて彼女と対面を果たす。
赤い顔をした、まだ生まれたての女の子。
蒸し器から出した肉まんのように、柔らかく湯気を出しそうなほど温かな息を吐いて、ビー玉のような丸い目で、僕の顔を眺めていた。
澄んだ黒目と赤らんだ頬、作り物のようなのに確かに熱を感じる手を見て、夢の中にいるような気がした。生まれたての赤ちゃんというよりは、全てを見透かしているような達観した何かを感じ取り、彼女に対して何か近しいものを感じた。
生まれたての赤子に何を思っているのだと、怒られそうだけれど、その直感は正しく、成長するにつれ、彼女はその才覚を表していく。
彼女には絵を描く才能があったのだ。天才はどこかしら欠落しているというけれど、彼女の場合、逆だったように思う。
「ねぇ、さくちゃん。さくちゃんって私のこと嫌いでしょう?」
彼女が小学校に上がる頃、彼女こと、咲美ちゃんは笑わずに言った。そう彼女は、何でも見透かしている。洞察力とでもいうのだろうか、空気を読む能力が強かったとでも言おうか。いいや、きっとどれもそうなんだ。
「……嫌いじゃないよ」
彼女の鋭利に尖った視線は人のあらゆる心の波を見抜き、そのあまりの心根の醜さに何度も絶望と期待を繰り返し、疲弊していった。
頭がよく敏い彼女は、その幼く、柔らかな感性で何もかもを受け入れていたのだと思う。ありとあらゆる分野で結果を残し、それは次第に周りと軋轢を生み、彼女が拒絶しているのか、周りが拒絶しているかわからないほどに、反発し、孤独を膨らませていく。
そんな彼女の拠り所が、絵であった。
鋭い洞察力と、強い感受性に恵まれた彼女はモノトーンの絵ばかりを描いている。鉛筆を削り、描き切るその世界はとても子供が描いたとは思えないほどの、圧倒的な描写力と表現力。明暗だけで描き切る写真のような繊細な風景を、彼女はわずか七歳で描いていた。
それでも神様は残酷で、彼女は生まれた頃から色盲だった。色盲と言ってもいろいろあるようで、彼女の場合、青い色が見えないという症状だ。
だから、彼女は絵の具を使わない。延々と鉛筆でのみ絵を描いている。どの絵も写実的なのに、セピアの景色には滲み出るものがあった。どの絵も心が締め付けられるような寂しさが浮かんでいた。夕焼けの風景一つとっても、心が締め付けられるような光と影が物悲しく影を落とす。
もしかすると、意図的に描いていたのかもしれない。気づいてほしい、わかってほしい。そして手を差し伸べてほしいと。彼女の孤独は、毒となり、自身を蝕んで引き返せないところまで追いつめていた。
まだ、彼女は幼く自分を守る術を持たない。そんな子供でしかないのに、妬まれ、疎まれ、親でさえも気安く彼女と関われない。「助けて」という彼女なりのSOSだったのかもしれない。そんな彼女を、伏見夫妻は見て見ぬふりをし続けた。
気味が悪かったのだろう。何もかもを悟り、自分たちよりも少しのことで多くを学んでしまう彼女は、伏見夫妻の知ってはいけない秘密まで、わかっているようだった。
彼らは、互いに相手がいた。
彼女は、彼らのその僅かな匂いの違いや、よそよそしい態度から察し、探りを入れていたのかもしれない。
「お父さん、もうやめにしない?」
彼女はそっとやめるように言ったこともあるそうだ。その時の作られたような巧妙な父親の笑顔を忘れられないそうだ。
有無を言わせないほどの圧を持って、極めて巧妙に。それでいて嘘だとわかる気味の悪い笑顔を彼女に向けたまま、何も言わず彼女の言葉に答えることはなかった。
子供ながらに自分の両親が仮面夫婦で、互いにそれをわかっていながらやめる気もないことを悟るのは、どんな心地がしただろう。
夫婦や恋人がなにをするかすら、まだわかっていないような歳で、見てはいけない何かを察し、吐き気を催しながらも、軽蔑しながらも、それでも家族をつなぎとめようと勇気を出して言葉にしたのだろう。
彼女はあまりにも報われないことが多すぎた。
僕は彼女が嫌いじゃなかった。本当に心の底から、同情していた。
彼女はいつも、息苦しくなると僕の部屋に侵入する。窓際に植えられた木を伝い登り、部屋の窓に消しゴムを投げて僕に知らせる。
「さくちゃん! あけて!」
僕が窓から顔を出すと、彼女はひだまりのような笑顔を向け、「早くあけて!」と子供っぽく無邪気さを装い叫ぶのだ。
「……君は一度、そこから落ちればいいと思うよ」
「私、そんなに親切じゃないわ!」
彼女が憎まれ口をたたくのは僕だけだった。実の兄ですら彼女は気を使い、本心で話しているのを見たことがない。
「ほら。早く入って」
僕が手を差し伸べると彼女はくすくすと笑いながら。
「さくちゃんって、素直じゃないよね」とすぐバカにするのだ。
「ただいま!」
「……おかえり。ほら、早く」
僕らには僕らにしかわからない繋がりがあった。幼馴染ではなく、兄妹よりも近く、恋人よりも深い。
どれだけの憎まれ口をたたいても、お互いの思いあう心だけは言わずとも理解しあっていた。愛というにはまだ拙く、恋というには出来すぎた、言葉にできない絆が僕らにはあった。
その日は、台風の影響で雨が降っていた。
先日、誕生日を迎えた咲美ちゃんは珍しく、静かで何も言わず窓から流れる雨粒を黙って見つけているだけ。話しかける雰囲気ではないけれど、隣にいる僕の手を離してくれなかった。
隣の幼馴染の少女は浅い呼吸を繰り返して、その吐息でガラスを曇らせている。
彼女のどこか見ているようで、どこも見ていないその視線は、一瞬だけ揺らぎ、錯覚のような涙を流した。
こんなに静かに泣く彼女を見たのは初めてだった。
涙で濡れる彼女の長いまつ毛が、瞬きのたびに動いて、雫を幾度も落としていく。
音のない感情。嗚咽を吐くことのない、まるで静止画の泣き顔を見ているようで、現実な気がしない。
活発な彼女の涙。まだ年端のいかない彼女から漂うのは、諦めにも似た感情。十になったばかりの小学生なのに、彼女はいろんなことを理解している。
多感で繊細で敏い彼女は、幼さしか持ち合わせない子供たちの中でどれほどの苦痛を抱いていたのだろう。
人の視線の動かし方、表情の一瞬の機微も見逃さないほど、彼女は気づいてしまう人だから、手を差し伸べずにはいられない。
幼い子供は、その手を取るくせに簡単に彼女を裏切って誰も彼女を守らない。
言葉を交わさずとも理解できるぐらいは、彼女の優しさが使い倒されるところを見てきた。両親でさえ、あなたはしっかりしているからと甘やかされることはない。彼女は誰も見ていない場所で過呼吸発作を起こすのが、日課だった。
その小さな体で抱えきれないものを、押し付けられ、誰しも彼女なら平気だと思い込む。どんな人間でも、傷も痛みも同じだけの苦痛をもたらすことをわかっていながら、彼女だけは平気なのだと、目を背けるのだ。
彼女は自己犠牲的で、天真爛漫を装いながら、どこか思慮深く心優しい。だから、きっと残酷な結果を出すまで、その口で言葉にすることはない。つらいなんて、生きていけないなんて、そんな弱音が彼女から出てきたところを、見たことがない。
みんな、彼女の弱さを見ない。強い人間だと作り上げた偶像しか、見えていないのだ。
「咲美ちゃん、君は一度、その窓から落ちて死ねばいいと思うよ」
その言葉は残酷に聞こえるだろうか。それはきっと、僕と彼女にしかわからない。どんな綺麗ごとを押し付けあうより、相手を想う優しい言葉だって、互いにしかわからないのだ。
「もし、君が死ぬというなら、寂しくないように僕も死んであげる」
彼女は座り込んでいた窓際から、腰を上げ、僕の方を見た。
「ばかじゃないの」
そういった彼女の息遣いを感じて、抱きしめた。彼女の頼りない薄い体がかすかにふるえるのが、可哀想で、頼りなくて、弱弱しくて、愛おしかった。
「君にはわからないよ。バカのことは」
その一週間後、彼女は自殺した。
喪服に身を包み、葬儀に参列した。すすり声一つしない、そんな葬儀が生まれて初めての葬送だった。
血の気の失った彼女の白い頬が、初めて会った赤子の彼女とはあまりにも違っていて、僕は一人、頬から流れる雫をぬぐうこともしなかった。
雨の窓辺で、無表情のまま涙を流す彼女のことを思い出していた。ああ、そうか、彼女は今の僕と同じ気持ちだったのかもしれない。
彼女の棺の中に、白い花をそっと添える。白い肌死に装束が白い花で埋め尽くされていく。雪の中に彼女が埋まっていくような気がした。
雪原の中に、埋め立てて彼女を消そうとしているような、そんな気がした。むき出しの皮膚のない肌をやすりで引っかかれるような、悲痛な痛みが、悲鳴も出せなくしていた。
一秒なら、戻れる気がするのに。それをたくさん繰り返していれば、彼女が生きていた時間も戻れるかもしれないのに、そうやってもう一度、彼女に出会える気がするのに。
きっと一秒も戻れないことを、大事な人が死んで初めて知った。
家に帰って喪服のまま、ベッドに倒れこむ。部屋の中にはまだ彼女の温度が残っている気がして、その時初めて声を出して泣けた。
唸りのような,呻きのような、叫び声が飛散する部屋の中で、自分の悲しいが、もう形を保てないほどに強烈に歪んで、度を越えて、自分の首を絞めている。
初めて死にたいと思った。もういいや、死んじゃえば、そうすれば、彼女のところに行けるのだろうか。
僕はそっと雨の降る窓を開ける。
「ここから落ちればいいと思うよ」
散々、彼女に吐いた憎まれ口が頭をよぎる。何を言っているんだ。それは、僕の方じゃないか。そうやって身を乗り出そうとした時だった。植木鉢の後ろに細く丸められた紙があった。
僕ははっとしてその紙を広げる。
その紙には、僕がいた。そしてそれは紛れもなく、咲美ちゃんが描いたものだった。その絵に雫がポタリと流れた。
彼女の孤独を感じない絵を初めて見た。優しく微笑んでいる僕は、ぬくもりを感じるほど優しい笑顔をたたえていた。
僕はこんな顔で彼女を見ていたのだろうか。そして彼女はそれを救いにしていたのではないだろうか。
僕と一緒に死んでくれなかったのは、僕に笑顔でいてほしかったからではないのだろうか? 彼女は優しい人だった。いつも誰かに手を差し伸べずにはいられない人だった。真っ当で正しくて、歪めないから死んだんだ。
人から向けられるたくさんの悪意にさらされて死んだんだ。それでも、彼女が優しくいられたのは、誰かの幸せを願いながら死ねたのは――。
自惚れでもなんでもよかった。死ねないじゃないか。僕が死んだら、何もかも無駄になってしまう。彼女の優しさも、愛情も、ぬくもりも、全部、全部が無駄になってしまう。
死んではいけない。いつも笑ってないといけない。そうだろう、そう願ってくれたんだろう。
そうやって僕は、今でも彼女の絵を描いている。
「愛する人を亡くして、新しい恋をして、それで前向きに生きていく。それが死別の物語のテンプレート。だから僕には新しい恋人がいるし、そこそこ幸せなふりをする。それが亡くした人にできる唯一のこと。一生悲しんで、一生覚えていてなんてそんなこと望める人間のほうが少ないんじゃないかな? それでも、亡くしてしまった愛を貫くのもいいさ。それも一つの愛の形だよ。けれど、それをすると早紀美ちゃんが救われないだろ? 一生愛する人の悲しみを天国で見つめながら、自分のことを責め続けるなんて可哀そうじゃない? だから物語の死別のテンプレートは救われるように書かれているんだ。僕はね、彼女が悲しいのが一番つらい」
初めて彼女の話をした。同じ部活の明星さんという子に、僕が思い続けている彼女の話を。彼女は涙をこぼしながら、言葉を必死に紡ごうとしては口をぎゅっと結ぶ。
そんな様子を見て、少し救われた気がしたんだ。
「君は情に脆いね。——ありがとう」
僕は咲美ちゃんの絵を見つめたまま、少し笑う。彼女の気持ちはちゃんとここに返ってきたから、もう寂しくはないんだよ。気が遠くなるような時間の中、咲美ちゃんの、笑っている声が聞こえた気がした。
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