小説「小夜曲」
夕立の雨に服が濡れ、どっしりと重みの増す制服を絞っていた。バス停の頼りないトタン屋根に雨粒がたたきつける音だけが響いている。
薄暗がりの中、制服のスカートを絞る妹が、ふいにこちらの視線に気づいて頬を赤らめる。その瞬間、変な意味で眺めていたわけではないのにこちらも頬に熱が集まってきた。
梅雨はいつもこうだった。放課後、部活などに入らない不精な僕たちは帰宅部の名のもとにバスに乗り込んで、颯爽と帰宅する。
雨粒を吸い込んで重くなった制服越しに寄り添った彼女の体温を感じる。僕らはいつも言葉を交わさないで、寄り添って目をつむる。
バスの中でくぐもった雨音に耳を澄まし、お互いに目をつむるのだ。小夜はいつも長い髪を雨で湿らせているのに、雨の生臭いにおいなどはせず、シャンプーの華やかな匂いがした。
それは鼻を刺激するような香水というより、甘い夢を見せるような柔い香り。
地肌の優しい匂いと混ざって、彼女の香りは心が安らぐようだった。
小夜と兄妹になったのは、両親の再婚がきっかけだった。
父の連れ子だった小夜を紹介された時、初めに思ったのは面倒なことになったという失礼極まりないこと。
人見知りを拗らせた僕にとって血の繋がらない妹という存在はどう扱っても、腫れものに触るような扱いしかできない。
そうして、だんだんと気まずさが増していくイメージしかわかず、どうすればいいのだとあぐねいていたのだ。けれど、それは小夜も一緒で。
冷や汗をかきながら、彼女は顔を真っ赤に染めて声を出そうと必死で。かすれた声を懸命に出しながらようやく自己紹介をしてくれた。
「さ、小夜です。はじめ、まして……」
彼女のその必死な表情に、自分が恥ずかしくなり、拒絶することばかり考えていた自分を改めさせるきっかけになった。
躊躇うように彼女の頭に手を置いて、優しい声色で話しかけた。
「小夜、無理して兄妹にならなくていいから。でも、仲良くしてくれると嬉しい」
ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、自分にとって精いっぱいの誠意で、恐る恐る小夜の方を見ると、カーテンのように俯く顔を隠していた長い髪を、耳にかけて僕を見上げていた。
頬は色づきサクランボのようにほのかに赤らんで、細められた目には喜びと同時に涙が滲んでいた。
彼女はどれほど緊張し、怯えていたのだろう。初めて他人に心があることに再認識した。わかっていたけれど、痛感したのだ。涙を浮かべるほどに喜んでくれる小夜の懸命さに、胸を打たれ、自分の方が泣きそうになった。
きれいな切れ長の目は、澄んだ黒色をしていてどこまでも僕の内面を見透かしそうなほど、純粋に輝いていた。
きっと彼女の笑顔を知らなければ、きれい目な女性という印象しか抱かないかもしれない。卵型の輪郭も、白い肌も、まるで美しく作られた人形のように整っているのに。
目元を赤く染め、精いっぱい目を細めて笑うその姿は、どう見ても幼い女の子のそれでしかない。くせっけのある黒髪と相まって、十にも満たない少女のように思えた。
そっと触れた彼女の柔らかな髪質に狼狽えて、それでも僕は彼女に微笑んで「これからよろしく」と言葉にした。
彼女は首を縦に何度も振って「ありがとうお兄ちゃん」と言葉にしてくれた。
それからの生活で、彼女の人となりを知ることになる。
彼女はおびえがちで、僕を家族と見なしてからは縋るようにひっついてくるようになった。目元をいつもうるませて、いつも何かに怯え、体を小動物のように震えさせ、俯くことが多かった。そんな彼女を僕は異常なほど内気なのだと思い込んでいた。
いつもカーテンのように、長い髪を垂れさせ、図らずも髪で顔を隠しているように見えた。
父と母とは最低限しか関わらず、小夜も実父である父を避けているようだった。父を見る小夜の目はどことなく淀んで薄暗く、不仲であることは確かで。
それは僕と母もあまり変わらなかった。母は、血の繋がった父に日に日に似てくる僕が許せないのだと、酒に酔った勢いで吐露していた。だからそれ以来、僕は母を嫌っているのだ。……自分を嫌う人間を好きになれなかった。
小夜も母とはどう接していいのかわからないみたいで、話しかけるのも躊躇って黙り込んでしまうことが多かった。
言葉を話すことも苦手なようだ。
いつも帰宅途中のバスの中で、お互いにもたれかかり、互いの体温を感じるその時間だけが、唯一、安心できる時間だった。
登下校の誰もいないバスの中。その空間だけは兄妹ではなく、一人の人間として彼女を見ていたのかもしれない。
澄んだ黒目が揺れるように僕をその目に映し、僕も消えそうな小夜を見つめていた。恋というには執着に近い、青い春。
窓の外に視線を投げ、そっと彼女の手の甲に僕の手の甲で触れてみる。
彼女があっと声を出すのが聞こえ、握り返してくれたその手にぎゅっと優しく力を入れる。僕らはいつも言葉にしない。好意はあるのはわかっている、けれど言葉にしたが最後、もう戻れなくなると思った。
決して僕らは性的に触れ合うことはなかったけれど、視線が絡むことでお互いがお互いを理解する関係が出来上がっていた。腫れぼったい頬とうるんで煌めく瞳を見れば、彼女が僕をどう思っているかなんて明らかだった。
きっと熱のこもった僕の目も、彼女を眺める時、愛おしさのあまり揺らいでしまう視線も、熱く滾るような劣情も、小夜はわかっていたと思う。
視線が絡んで、瞬きの瞬間すら瞼の裏に焼き付いて離れないその姿。
指先で強く繋がって、お互いの熱が絡んで脳の端が白むようで、吸い込まれそうな瞳を眺めたまま、頬を撫でて口づけたい。
こもった熱情は延々と触れ合えないことで溜まっていく。だから、この手だけは離さない。
雨音が響くバスの中で、お互い何も言葉にすることなく恋人つなぎをした。指と指から伝わる熱だけが、僕らの真実で、それ以外を必要としない。
視線を交わすことなく、言葉を放つこともない。禁じられていると悟っていた。兄妹なのだ。血の繋がりはどうであれ。
それでも僕らは手を繋いだ。気持ちを確かめて、甘い言葉を交わすことは永遠になくとも、この思いだけは僕らの中できれいな事実のまま留めていこうと。
運転手以外、誰もいないバスの中で今だけはと。
切願を抱き、決定打を出さないまま、きっと二人とも時間が止まればいいと願っていた。
夏になれば、バスの中でコンビニで買ったお菓子を分け合い、海沿いまで来ては、二人してシーガラスを集めていた。
僕たちはいつも自分たちだけの宝物を探していた。
「お兄ちゃんは、寂しい?」
波打ち際で遊んでいた小夜が、煌めくさざなみに足を浸しながら、問いかける。どこか寂しそうな眼差しで、蹴り上げた水飛沫が星のように煌めきながらぽたぽたと滴った。
「……小夜がいるから、寂しくない」
そういった瞬間、小夜は泣きそうな笑顔で顔をゆがめた。その表情が何を意味するかなんてわかっていた。愛されたい、両親に。当たり前の愛情を与えられたいと願う子供心を、互いに捨てきれないでいる。
「でも、小夜は寂しくていいよ。当たり前なんだよ、そんなの。お父さんに子供として愛されたいなんて、当たり前なんだよ」
そう言葉にした小夜は泣きべそをかきながら「うん」とだけ。それだけ言葉にしたきり、僕らは言葉を交わさなくなった。
僕らの家族は、子供と親で別の二つの家庭が一つの家にいるような、不思議な家族だった。
母よりも小夜が身近で、父よりも僕が身近だった小夜は、高校を卒業したら一緒に住もうと話をしていた。
僕は高校卒業後、就職するし。その2年後に卒業する小夜も就職することを決めていたのだ。田舎なこともあり、偏執的な考えが蔓延って、血の繋がらない兄妹が一緒に暮らすことを、何かおかしいと勘ぐる人も多くいた。そもそも話してもいないのに、その噂はどこから流れたのか、考えたくもなかった。
けれど、田舎から出てしまえばこちらのものだ。
僕らはタガを括っていた。
二人で生活するためにバイトをし、家から出る資金をお互い貯めて、いつでも出られるようにしていた。小夜はいつも、二人で暮らすことを楽しみにしているようで、とてもうれしそうに新しい暮らしの話をする。
「お兄ちゃんとずっと一緒にいられるの、うれしい」
小夜の言葉はいつも拙いけれど、はっきりと思いを告げてくれる。僕らは恋人になれずとも、いつも寄り添って生きていくのだと思い込んでいた。
誰よりも小夜のことを知っているのは自分であると。思い込んでいたのだ。
卒業し、一足早く家を出てしばらくしてから、スマホに小夜が事故にあったことを母の留守電で知った。
留守電の母は冷たく、ただ必要なものを持って彼女の入院した病院へ行ってほしいと。それだけを留守電に残していた。
急いで病院に向かうと、入院着を着た小夜が足にギブスをつけてベッドで眠っていた。死んでしまうほどのケガではなかったと、血色のいい顔を見てほっと胸をなでおろす。
彼女の入院に必要なものを片付けていると、担当の看護師に「医師から話がある」と別室に呼ばれた。
両親もそろっていないのに、おかしいなと違和感を抱きながらも椅子に座るよう促され、された話は衝撃的なものだった。
「事故とは別に多くの古傷がありまして。もしかすると、お兄さんが家を出て行ってから、両親、またはどちらかに虐待を受けていた可能性があるんです。それに、お母さんもお父さんもご連絡してからまだこちらに来ていなくて。遠方に住んでいるお兄さんが一番早く駆け付けたという点でも……」
そう聞いた瞬間、体中の血が凍りついたように冷えて、震えが止まらなくなった。
母のそっけない留守電にも。父も母もかけつけていないことにも。暴力を受けていたことに小夜が一言も僕に伝えていないことも。
そして何より、小夜が昔からおびえがちなのは、僕と会う前から父親に虐待を受けていたからなのでは? そんな考えがよぎって居ても立ってもいられなかった。
「両親の面会を遮断していただくことって……できますか?」
頭の中が混乱しながらも、すべきことを考えていた。
「ええ。そうしましょう」
医師は病室を変更するように手配してくれた。今まで貯めていた貯金から、治療費を出して早めに退院することを決め、高校を編入し、一緒に暮らすことになった。
小夜が退院する日、まるで夜逃げでもするような後ろめたさを抱き、こそこそと病院を出た。貯めていたお金でしばらくはどうとでもなる。
狭い部屋の中に小夜の荷物を置き、外食に出かける。
「食べたいものはある? 今日だけは好きなものを食べよう」
そういうと、小夜は言い淀んだように押し黙った。
「どうした?」
小夜はうつむいたまま、何も言わない。また涙をいっぱいに貯めて、あふれ出しそうな目をごしごしとこする。
言いたいことはわかっていた。
「暴力にあっていたこと、どうして言わなかったのかと、責めてほしいのか?」
そう言葉にすると、小夜はびくりと体を震わせた。
「言えなかったんだろ。……言えないよな。悲しいもんな、本当は小夜はお父さんにもお母さんにも、愛されたかったってわかってるのに、責められないよ」
「なんで」
小夜は唇を震わせながら、叫んだ。
「なんでお兄ちゃんは優しいの! 優しいだけでいられるの! 私はいつも自分のことで精いっぱいなのに。何にも返せないよ……。ごめんなさい。ごめんなさい」
小夜の青ざめた唇が震えて、滴った涙がキラキラと地面に零れ落ちて、可哀想で悲しくなって思わず、抱きしめた。
「……僕も、家族に愛情を欲しがっていたって言ったら、笑う?」
初めて本音を口にした。街灯がぽつぽつと灯り出し、僕たちを照らしている。誰も通らない道で抱き合いながら、声に出したら僕まで涙が出た。
「返してもらってるよ。小夜だけは僕を大事にしてくれたじゃないか。ずっと寂しかった心を埋めてくれたじゃないか。なぁ、小夜。僕、一生、お前の家族になるから今だけ本当のこと言っていいか?」
そういうと小夜は頬を染めながら、うなずいた。
「一生言うつもりなんかなかった。せっかくできた妹を、失いたくなかったから。口にするもつもりなんてなかったんだ。許してくれ。僕は――小夜を愛してる」
小夜は小さな声でもはっきりと「私もお兄ちゃんが好き」言葉にしてくれた。
もうきっと他の誰かを彼女以上に愛することはない。ずっと願ってる。今、この一瞬を永遠の中に閉じ込めてほしいと。
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