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ゴンドラの唄 ADV燐‐Rin‐スピンアウト

見覚えのある河川敷の並木道に、桜が咲いている。

これは夢……なのだろうか?

 古い作りの河川敷に掛かる橋から話し声が聞こえる。

 耳に唸るような風の音が聞こえたかと思うと、桜の花びらが飛ばされて、その先にいた長身の男と、着物を着崩しキセルを加えた猿の妖怪に吹き荒れた。

「約束通り、鬼の記憶をもらいに来たよ」

鈴の音がリンリンとその猿が揺れるたびに鳴り響く。昼間だというのに、そこには少女と彼らしかおらず、その静寂に鈴の音は耳障りで酷くうるさかった。

「……約束が違う。鬼を殺すには子供を産ませることだとお前は言った。鬼に子供を産ませれば、鬼の力は衰えて死んでしまうと。確かに薫子は死んだ。けれど今度は子供が鬼になった。こんなこと望んでいない。こんな望んでいないことと薫子の記憶を引き換えになど! できるはずがないだろう!」

 取り乱す男に、猿はさも当たり前のようにこう返す。

「鬼の子供が鬼にならないわけがないだろう? 鬼というのはね、子供産むと鬼の魂が子供にわたるんだよ。記憶も妖力も、子供を守るための力全てが母から子へ渡り、渡してしまった母鬼は死んでしまう。私はあくまで薫子を殺すにはどうしたらいいかという問いにしか答えてない。間違いではないだろう?」

「そんな……!」

 その言い争いを見ていた。ただぼんやりとみているその無表情の瞳にはいつしか涙が零れ落ちていた。

「それに……名は体を表すとはよく言ったものだよ。薫子の子、あやめといったかな? ふふっ、ひどい名前をつけるもんだ」

「……」

「妖かしの芽。であやめ。花の名前で隠してごまかせるとでも思ったのかい? 真名はね、つけた本人の願いと感情が現れるんだよ。心を読めばすぐにわかる……。お前は自分の子を恐れている。そして、薫子は死を選ぶためにあやめを産んだ……。違うかい?」

 猿は攻め立てるように、長身の男に言い放った。長身の男は悲しげな顔をして押し黙っているばかりで、答えようとはしなかった。

「おかあさんは……死ぬためだけに私を産んだの?」

そう呟くと、次の瞬間にはその幼い手が黒く変色していき、血管が浮き出て、爪が鋭く大きく尖った。

そんな変化に男と猿は気づかない。

「私は誰からも望まれてなかった。……誰も私を望んでなかった!」

 だんだんと体が黒く染まっていく。そして八重歯が鋭利になり、頭の折れた角が再生していくのがわかった。

「望まれずに生きるぐらいなら」

 全身真っ黒になった体は走り出す。油断していた猿を、後ろから引き裂いた。耳の痛くなるような悲鳴を猿は上げて横たわり、赤い血が飛び散って辺りを汚す。そしてその血から蒸気が立ち上る。

「臭い。まずい。おいしくない。……それでも私を鬼にしたお前を許さない。愛されない体にしたお前を、私は許さない」

猿は殴られた。何度も。何度も。何度も。その力はあまりに強靭すぎて、殴られるたび猿の肉片があちこちに飛び散り、飛び散った肉片は蒸気になって消えていく。

「許さない、許さない」

そうして猿は姿形もなくなったが、瞳だけは消えることなく転がって川の中に落ちていった。それを呆然と見ているだけだった。

「愛されない。私は……一生、誰にも愛してもらえない」

 そういって泣いた自分の瞳には、涙があふれてはこぼれ、流れていく。その姿はもう、ただ、弱くてみっともないただの人間だった。血で汚れたただの子供だった。

 月明かりが水面に反射して少女の泣き崩れた姿を優しく映し出す。もう明かりを反射するほど白かった肌は黒く染まって見る影もない。

「妖芽……」

 呼びかけたのは長身の男だった。

「おとうさん、私と同じになってよ……。一人にしないで! 私を……鬼の私を、一人にしないで!!」

 狂い咲きの桜が二人の間に花びらの雨を降らせる。みじめにも散っていく桜は一人だけ咲いて、一人だけ散っていく。寂しい桜だった。

 

そうか、これはあの鬼の子、妖芽の記憶か。

我に返って私は体を見る。若い青年の体を乗っ取り、なんとか生きながらえたことを思い出す。あの鬼の子から見た私は、ただの弱い猿で憎き敵だった。

 私が響鬼家に近づいた理由。それは鬼の記憶を未来永劫食い続けること。

鬼はその強靭な再生力から自決することはできない、子供を産まなければ死ぬこともない。それは鬼の半妖でも同じこと。いかに人間の血が混ざっていようと、鬼の再生力は衰えることはない。自らの中の鬼が例え、目覚めることがなかったとしても、生物はより強者へと変わり、輪廻転生を繰り返すことで化け物はより手に負えなくなっていく。

完璧な生物へと変化を遂げる鬼の血族は、絶えることがない。

そして鬼であると同時に人でもある者には縁が生まれる。愛し愛され、憎み憎まれ、その思念さえも母鬼から子鬼に受け継がれると、呪いが生まれる。

そしてそれらは悲劇を生めば生むほどに、色濃く、哀しく染み付いて、記憶を受け継げば継ぐほどにその想いという呪いを強くさせるのだ。

 そしてそれを食い止める唯一の方法が、想いの根源である記憶を奪うこと。そう、私は響鬼のその受け継がれる呪いを薄めるために、子が生まれたあとで鬼の受け継いだ記憶を食う役を買って出るつもりだったのだ。

そうすれば、鬼の呪いは薄まる。そして膨大な力を持つ鬼の記憶を食うことで、私は寿命が尽きるまで食い扶持に困らなくなる。だから、それだけのつもりだった。

 他に鬼を殺す方法など、本当にないのだ。

 それなのに逆上され、肉体を奪われることになるとは思いもしなかった。

 人の望みなんて、理解しがたいものだ。叶わないと伝えたところで、信じたくないと否定し、ないものを探そうとする。諦めない心を持った人という生き物こそ、何よりも業は深い。

 かくいう、私もそうだ。人が答えを追求する人の心から生まれた妖怪。心を覗きたい、人を知りたい、その願いが私を生んだのだ。

 だから……なんだろうか。私の体を奪ったはずの彼女の、強く真っ直ぐな感情に当てられた。


どうして私は愛されないの?

 

彼女もまた、答えを求める者の一人だった。

ただ彼女には、鬼であっても自分を愛した人が確かにいた。自分の問いを根底から否定する者の存在、そして彼女はその存在に縋り生きている。

それなら彼女は、その存在である総司の死に何を思うのか。そしてその時感じた感情はどういったものなのか、それはもうただの興味に過ぎなかったが、気が遠くなるほどに長い、命が尽きるまでの余興には、十分だった。


 その夜は、厳かな雪の降る夜だった。

 通夜を行う響鬼家の門の前には、提灯がいくつも並べられ、淡い橙の光がゆらゆらとあたりを照らしている。

その揺れる光の向こうに、喪服に身を包んだ妖芽とその祖母が来賓に頭を下げているのが目に入った。人間にとっては身を切るような冷たさの中、真っ青な顔をして妖芽は表情こそ変えないものの、微かに震えていた。

あの頃は小さな幼子だったというのに、まだ幼い顔つきを残しつつも、妖芽は見た目だけなら薫子に勝るとも劣らないほどの見麗しい女へと成長していた。

参列者が門をくぐる邪魔をしないように、私はそっと後ろからその様子を眺めていると、不意に声をかけられた。

「どちら様ですか?」

 ゆっくりと振り向くと、そこには響鬼の女中と思われる女が怪訝な顔をしてこちらを見つめていた。通夜だというのに、家に上がることもせず呆然と眺めている私を不審に思ったのだろう。

 私は妖芽に気付かれないよう、静かな口調でこう聞いた。

「……総司さんは、亡くなられたのですか?」

「はい。……失礼ですが、旦那様のお知り合いの方ですか?」

 苦笑いした。姿を変えなければ、感情を隠すこともできない、嘘をつくこともできない。私はあえて妖怪だとは悟られないように慎重に言葉を選んでこういった。

「友人……と言えるのかな? 随分昔に、喧嘩別れしてそれきり。今日は近くを通ったのでたまたま覗いてしまっただけなのです。……そうですか。総司さんは亡くなられたのですか……。お悔やみ申し上げます」

 頭のいい青年だった。初めてあったあの時からずっと、私は彼の賢さと自己犠牲の化身のような愚かしさが、可笑しくて気に入ってたのに。

 悔やまれる気持ちがあるのが嘘ではなかった。けれど、彼女が嘆き哀しみその後をどうやって生きるのかを観察する。それも楽しみの一つだった。

「……会って行かれますか? 旦那様と」

 女中は心底哀しそうな顔をして言うものだから、一瞬だけ目を瞑って心の中を覗いて見ると、彼女は総司に仄かな恋心を抱いていたことがわかった。

 そっと女中から目をそらして、玄関にいるうつろな目の妖芽を見た。

響鬼の門をくぐれば、どうなるかはわかっていた。妖芽に見つかれば、どうなるかなんて明白だ。妖芽は私を恨んでいる。自分を産ませるきっかけになった私を。

うつろな目をした妖芽は、小さく震えている。まるで心の中で大泣きをしてそれをどうにか表に出さないように必死に繕っているみたいだ。

心は読めるのに、覗く気になれなかった。またあの強い感情に当てられてしまったら、同情と一緒に他の感情も溢れ出てしまいそうだった。

ふいに私は彼女に会ってみたくなった。前の体を感情のままに痛めつけ壊した、憎むべき彼女に。会って話がしたいと思った。

 おかしな感情だ。私は人の記憶を食うだけの傍観者だったというのに。記憶に宿る感情を動力に生きているだけで、それ以上でもそれ以下でもなかったというのに。

 彼女との接触は、自らの命を縮めるだけかもしれないというのに。

 ただ彼女は知っている気がした。私がどうして生きているのかを。その強い感情の毒気に当てられたのかもしれない。

彼女を見て、自分を考えずにはいられなかった。

 人の哀しみや喜びをまるで芝居をみるように、眺め愛で笑った。しかし、どれだけ眺めてもいつも芝居の中に自分という役はいない。

 人と交わるには、強く動く感情が自分にはないことを。強く誰かに想われることもないことを。強い想いは毒気を帯び、時には悲劇を呼ぶ。私にはそれがない代わりに大きな幸福も呼ばないことを。

 傍観者としての生き方を、悲観しないわけがなかった。何故なら私自身に感情がなくても、私はその記憶の想いで生きているから。

 考えずにはいられなかった。それでも、それを口にすることはなかった。何故なら、それを口にしたら最後、私は私の生き方を否定することになってしまうから。

 それを認めたことになってしまうから。

 それでも彼女に会って、誰よりも強く自分の価値を求めた彼女に、何か言葉をもらいたかったのかもしれない。

「会っていっても……いいのですか?」

 女中は少し憂いを帯びた顔で笑った。しんしんと降る雪は冷たくもないのに、体の芯がじんと熱痒く震えた。

私自身感じたことのない感情だった。もしかしたら、食った人間の記憶にある感情なのかもしれない。私はそれを自分の感情だと思い込んでいるだけかもしれない。だが、それでもいいと、その痺れるような感情を、知ったふりをして目を伏せた。

「こちらへどうぞ」

 案内されるままに、響鬼の玄関に上がった。

 長い廊下を歩き、来賓が座る席に通され腰を落とした。喪服を着た大勢の人の中に一人だけ灰の着物を着た自分が目立ってしまうことは明白で、人の体とはいえ、妖怪であることには変わらないのも事実で。

 内心、妖芽は私を見つけた時の反応に少し期待していた。

しかし、しばらくして喪主を務める妖芽の祖父が挨拶を初め、枕経が始まったが妖芽の姿はどこにもなかった。それを探すようにあたりを見渡したが、どこにもいなかった。さっきまで来賓に挨拶していたというのに。

経を上げている途中で席をたつのはいけないことだと知識上知っていたが、経を聞くのは気分が悪く、一人だけ喪服を着ていないことで悪目立ちして居心地が悪かった。

そっと気配を薄め、静かに席をたった。

部屋を出ると、歌が聞こえた。小さな声で人間の耳では聞こえないほど、淡く透き通るような歌声だった。


『いのちみじかし恋せよおとめあかきくちびるあせぬまに熱き血潮の冷えぬまにあすの月日のないものを』


声のする方へと足を進ませると、その方向から総司の匂いがした。長い年月をかけて総司の匂いが染み付いた、そんな感じの古い匂いだ。


『いのちみじかし 恋せよおとめ いざ手をとりて かの舟に いざ燃ゆるほほを 君がほほに ここには誰も 来ぬものを』


歩みを早めると、人の匂いではない淀んだ匂いも混ざってきた。その匂いは紛れも無く私を殺した時の妖芽の匂いだった。

部屋の前まで来ると、その歌声に嗚咽が混じっていることにも気づいた。

 そっと、襖を開ける。ぼんやりとした月明かりだけが襖の向こうに入っていく。照らしだされた畳の上には、男物の着物が出されていて、そのどれにも総司の匂いが染み付いていた。目線を奥の部屋へと移す。わずかに喪服を着た妖芽に光が届いた瞬間、後ろを向いたまま座り込んでいた妖芽が、振り向くこともないまま声を出した。

「人間ってどうしてこんなに脆いのかしら」

 それは明らかに人間でない私に向けられている言葉だった。年にして妖芽は十七の女学生。あれから七年の月日が流れていた。

「……私が、誰だかわかるんだろう。どうして殺さないんだい?」

 少しだけ間を開けて、少しだけ笑った声がした。彼女に人間身はすでになく、身が凍るほどに妖艶で美しい声はもうあの時の子鬼ではなかった。ゴクリと生唾を飲み込む音が耳に届く。

 その美しさには鋭い毒が見え隠れしていた。触れたら最後、飲み込まれて二度と戻れない魔窟にも似た恐怖。それでも身震いしながらも見つめてしまう魔性に。

 月のような瞳を細めて振り返った妖芽は、笑っているはずなのに笑っていなかった。

「この歌どういう歌は知ってる?」

「私の問に答えてない」

 私はそういって彼女に少しずつ近づくと膝を折り、彼女の顔をのぞき込んだ。明かりはない。けれど、夜目はきく。

そっと覗きこもうとすると、彼女は総司の服を膝に置いたまま私に手を伸ばして、掛け衿を掴むとぐっと引っ張り、私の耳に顔を近づけた。

「この歌はね、作曲者のお母さんが死んだ時にできた歌なの」

 その言葉は私を責めるように続いた。

「母は自分が死ぬために私を産み、父は愛する女を殺すために私をなした」

 そう言うと、私の耳元からそっと離れ妖艶に笑ってみせた。頬には涙の跡が、声色は少しかすれていた。

「哀しいかい? 疎ましいかい? 大事な二人を奪うきっかけになった私が」

 その感情は確かに私だけのもので、私だけが彼女を憐れむことができる唯一の存在だと思った。人間が疎ましい彼女を憐れむことはできない。そんな彼女が余計可愛そうだった。

「憎まないはずがなかった。あなたを。けれど、私は生まれなければよかったなんて言えないのよ。お父さんがいたから。……父も、私を恨まないはずがなかった。母を奪った私を憎まないはずなかった。それなのにあの人は最後まで私を心配して死んでいった。愛して死んでいった。私はそれが嬉しい半面、どうしても理解できなかった」

 涙が落ちた。

 その涙は酷く熱く、血のように痛みと混ざっていた。

「……あなた、私が殺した覚なんでしょう? 知識欲が深く、人の記憶を食って生き長らえる。そしてなんでも知っている。私の父への記憶はあげるわ。だから教えてよ。父はどうして私なんかを愛せたの?」

 総司が死んで哀しいよりも先に彼女に来た感情は、総司への哀れみだった。愛しい人を奪った自分をどうして憎まない? どうして恨まない? それをしないことで辛かったはずなのにと。

「死んでしまった人の記憶はもう食えない。だからわからないよ」

 情けなく告げた言葉の中には、彼女への尊敬が混じっていた。自分勝手に父を吸血鬼にした妖芽は、もういなかった。愛されないと嘆いた妖芽は、父への謝罪であふれていた。

 そっと目を閉じて、彼女の心を覗いてみた。

(憎んで欲しかった。それでお父さんが楽になるなら、私を憎んで欲しかったのに、どうして優しくして自分を傷つけたの? 大好きで優しいお父さん。その優しさは自分の方にばかり刺を刺すのに、どうして私を守ろうとしたの?)

疑問ばかりが彼女を責め続けた。総司の本当がわかるはずもない。それでも妖芽は、問い続けた。

涙は落ちる。途中で凍りついてしまいそうな冷たさが、彼女の哀しさを引き立てた。冷たささえもが、彼女の感情の鱗片に感じた。

それを拭うこともできない私はそっと膝を折り、惑わしの言葉を吐いた。

嘘にはならない推測で、彼女を惑わそうとした。それはきっと人生の中で初めて憎まれ役を買って出た瞬間だったかもしれない。

「総司は君を愛したと嘘をついたのかもしれない」

 今思えば、のちの妖芽の裏切りは正当なものだった。嘘偽り欺くことはできなくても、惑わすことはできた私の、私という存在の罪が私から大きな幸せを奪い去ったのだ。

「でも私は嘘をつけない。つくと体が溶けて死んでしまうからね。だから言える、君は愛されるべき人間だよ」

 妖芽は私をじっと見た。涙をいっぱいにためた瞳で、彼女の歪んだ視界に私が写っていた。震え泣いている彼女は、縋るように私の頬に触れた。

「……私に同情でもしたの? あなただって私を憎むべきだわ。だって私はあなたを一度殺したんだもの」

「君を憎んでない。これを言ってもこの体が朽ちないことが証明だよ」

 人はどんな時に嘘をつくのだろう? きっと誰かの目を自分に向けさせたい時だと思った。

「嘘ばっかり。あなた、お父さんを騙して私を産ませているじゃない」

「騙してない。他に鬼を殺す方法なんてないんだ。総司は当然調べたんだろう? 鬼を殺す方法があるかどうか……」

 妖芽は目を細めて下を向いた。総司はあれからも鬼を殺す方法を探したに違いない。妖芽をいくら哀れんでも、鬼の血族を生むわけにはいかなかったはずだった。

「お父さんは、いつも鬼殺しの手段を探していたわ。私が鬼なのを知っているはずなのに……結局、見つからなかったけれど。ねぇ、あの優しさは嘘だったっていうの?」

「嘘だったかなんて、今更わかるはずもないさ。だがね。総司は鬼殺しの手段がわかったら、君を殺すつもりだった。でなければ、鬼殺しの手段なんて探すはずもない」

 妖芽は俯いて肩を震わせた。泣いているわけではなかった。けれど、当然喜んでいるわけでもなかった。

人とは難儀なものだ。愛されるべきでないと父を憐れみ、憎まれていたと思えば悲しむ。彼女にとってどの答えも自分を傷つけただろう? 胸を撫で下ろすような優しい答えは何処にだってないことを、知っているはずだろう?

それでも真実が知りたいというのなら、傷ついても父を真っ直ぐに愛すというのなら――。

 難儀すぎて、私は言わずにはいられなかった。

「それでも、子を愛さない親はいないものさ。総司は愚かしいほどに優しい青年だった。けれど賢い青年だった。だから、君が思うほど彼は不幸じゃなかっただろう。君がとやかく思うことじゃないんだ。その人生を選んだのは、彼自身なのだから」

 妖芽はそっと笑った。泣いていたけれど、私の顔を眺めて笑っていた。

「その同情がいずれ身を滅ぼすことになるわよ」

「身なら君が一度滅ぼした。どちらにせよ、いつかは死に絶えるんだ。それなら私は私らしく生きるとしよう」

 小さく心に残ったのは、妖芽の名前。総司がつけたこの名前は――。そして、それでも娘を愛そうとしたこの心は――。到底私などでは理解の及ばない、私などでは耐え切れない、妖怪と人間の狭間を生きた悲しい覚悟の名前だったのだろう。



「どうか死ぬまで幸せに」

 彼女がそういって死んだのは、8月のやけに蒸し暑い夜のことだった。


彼女の家、響鬼家は呉服店を営んでいた。母はその響鬼の常連だった。それだけの出会いだった。

初めて彼女をみたとき、こんなに美しい人がいるのかと我が目を疑うほどに心が震えた。

なめらかな黒髪を結ったその少女は、母に着物の柄を合わせながら、微笑む。

「お客様は、お肌が雪のように白くていらっしゃるから、このお着物の濃い赤がよく映えますわ」

 そういったのは、彼女だったはずなのに。雪のように肌が白いのは彼女の方だった。

 思わず息を飲むほどに、身のこなしも反射するような白い肌も、淑やかで、地味めな色合いの着物さえ映えてみえるほどに、彼女は魅力的な女性だった。

 思わず目があった俺ににっこりと微笑みかけた彼女の笑顔は、人形のように巧妙で、どこか浮世離れしていた。人間味がなかったのだ。

 のちに彼女が人ではないことを知ったのは、薄気味悪く笑う覚と名乗る青年と出会ったことがきっかけだった。

「君は彼女が好きなんだろう」

 母に付き添って幾度も呉服店に訪れる俺に不信感を抱いたのか、その店の奥にいた青年が声をかけてきたのだ。

「……あなたは彼女の……その」

「恋人か? その問にはいいえと答えるべきだな。どうせ、私と彼女は相容れぬ存在なのだから」

 哀しそうな表情をした彼に少女が頬を染めて微笑みかけるのを見たことがあった。彼女のそれは恋慕の情なのだろうか?

 白い肌が赤く染まったその表情は、初めてみる彼女の生きた感情に思えた。彼女が他には見せない表情だった。

「彼女は鬼だよ」

 ぽつりと呟いた青年はその美しい目を細めて俺をあざ笑った。

 その時は、冗談を言われているのかと思った。しかし、彼女との関係を見かねた母が響鬼との縁談を持ってきてくれた時に、うわ言のようにこう呟いたのだ。

「鬼の子、なんだってね」

「鬼の子? 何の話?」

 温かい緑茶を俺の前に出して母は重たい口を開けた。

「嘘みたいな話なんだけど。妖芽ちゃんのお母さん……その、鬼だったっていうんだよ。響鬼のおじいちゃんは嘘なんか言わない頭の硬い人なのだけど。はっきりとうちの孫は鬼の子だって言ったの。だからあんたと妖芽ちゃんとの子供は鬼の子になる。その覚悟があるのなら縁談をお受けしましょうって。そう言ったの」

 母は、着ている着物を一撫ですると哀しげな表情を見せた。

「どういう意味でそういったのかわからないけど、妖芽ちゃんの見立てはいいし、気立てもいいし。優しい子なのにどうしてそんなことおじいちゃんに言われなきゃいけなかったのか、私にはわからないの」

 俺にもわからなかった。あの青年に言われた言葉、鬼の子。もしかしたら本当に彼女は鬼の子なのかもしれない。あの浮世離れした美貌、巧妙に作られたような作り笑顔、人間味を全く感じない、全てに。

 それでも、俺は彼女が欲しかったのだ。

「見合いに行くよ。彼女のこと知りたいんだ」

 俺は間違った選択をしたのかもしれない。けれど、それでも後悔しなかった。


「私が鬼の子……、お祖父様がそういったの?」

 見合いとは名ばかりの気取らない顔合わせが始まった時に、俺はこっそりと彼女におじいさんが言ったことを告げた。

「おじいさんどういうつもりでそういったのかわからないけど」

「……それで、椿野さんは私が本当に鬼でも構わないの?」

視線をそらし、彼女は響鬼の庭先の桜の木の下で呟いた。

風が吹いた。彼女は髪を抑えたが、髪がふわふわと風になびく。その美しさに見とれたが、不意にあることに気づいた。

白い折れた骨のようなものが彼女の額の上に微かだが見えたのだ。まるで折れた角のような。

 彼女は哀しげに笑った。

「それで構わないなんて、言えないでしょ?」

 その哀しそうな表情は心を抉った。初めてこんなのにも人を可愛そうだと思った。

 鬼、なんだろう。彼女は。望まずに、鬼になったんだ。だからあんなにも巧妙に作り笑いをして、誰にも優しくて、居場所をいつも作ろうと必死で――。

 それを一言も他の誰にも言わなかった。

 ただ俺が自分からいつでも逃げられるように、怖がらないように。俺に言うんだ。

(構わないなんて言えないでしょ?)

 優しい子。優しくて怖がりな子。

「鬼でも、構わないよ」

 俺は笑った。笑ったけど泣きそうだった。その表情をみて彼女は震えながら笑った。彼女も泣きそうだった。

「難儀な人」

 彼女はきっと、ぬくもりが欲しかったんだと気づいたから、俺はそっと彼女を抱きしめた。

 彼女が本当は誰を好きか知りながら。



 見合いを受ける2ヶ月前、祖母が死んだ。父、総司に続いて半年もしない出来事だった。

葬儀はしめやかに行われた。父を殺してしまった罪悪感、私を鬼にしてしまった償い、響鬼の家を立て直すために祖母は過労死といっていいほどに働き続けた。

 全てを祖母のせいにするつもりなどなかった。けれど、それを口にすることもなかった。きっと、本当は恨んでいたんだと気づいた時には、祖母はもうこの世にはいないんだから、お笑い草だ。

 もう、復讐も恨み辛みを言えないんだから。

 私は意思をなくした祖母の魂を持って、そっと外を出た。祖父が泣いていたのが目にはいっていたたまれなかったから。

「……夜の散歩かい?」

 響鬼の門を抜けると、一人の青年が立っていた。

 彼は灰の髪をさらりと掻き分けると、その金の鋭い瞳で私を射抜いた。鋭い目付き、その目は心の中を覗こうとしている。わかる、だって彼は私と同じ化け物。

 覚、あなたは心を読み記憶を食らう妖怪。私が一度殺し、蘇った化け物――。

 私は自分の苛立ちをぶつけるように、覚に当たる。

「わかっているんでしょう? なら聞かないで。人間みたい」

「私はただ、君の声で知りたいだけだよ」

 響いた声は悲しかった。私の心が見えたのだろうか?

 彼は惑わすけど、嘘はつかない。偽りを吐くことは許されない、彼は真実が生んだ妖怪だから嘘をつくとその身は崩れ始める。だから安心する。けれど、安心するから本心が出てしまう。私は覚といると自制が働かない。

響鬼家、それは私の母の代で鬼の血塗られた一族へと変わってしまった惨めな一族。母は始め、響鬼の嫡男である私の父の兄の婚約者だった。しかし、肺病を患い未練を残したまま死んだことで不完全な鬼になった。

まるで嘘みたいな話だけれど、私には母の記憶がしっかりと受け継がれているから笑って済ませられない。

鬼になった母、薫子は未練になった嫡男を食い殺し、魂の半分を奪い完全な鬼になった。自我を取り戻した母は、自らの行為に耐え切れず、死のうとした、しかし死ねなかった。母は死を望んだ。そして父はそれを叶えるために様々な書物を読みあさった。

けれどどんなにしたって鬼を殺す方法を見つけることはできなかった。

そんなある時、ある一匹の妖怪が響鬼を訪ねてきた。

「鬼を殺す方法を探しているんだろう? 子を産ませればいい。子を産ませれば、母鬼は死ぬ」

 それを響鬼に教えてくれたのが、覚。この化け物だった。

 確かに母は死んだけれど、私は母から鬼の力全てを受け継ぎ、今度は私が鬼になってしまった。

 けれど、仕方がなかった。鬼は生き続けるほどに自我が薄れ、力を増してより強靭な化け物になる。だからこそ、子供を産み、早く死ななければならない。

 そうしなければ、自我がある人として生きることはできなかったのだ。

「……来る? 空にあげるの。お婆様を」

 覚はなにも言わなかった。言葉にしないだけで、私の頭をそっと撫でると私の前を歩き出した。やはり、心を読まれていたみたいで行く先がわかっているようだった。

「ちゃんとした魂でよかったね。気がかりだったんだろう? 鬼にならないか……」

「……」

 私は心を読まれたことを苛立ってなにも言えなかった。

 覚は哀しげに微笑んで、辺りをほんのりと灯していた蛍を指にのせた。

鴬色をした光が、幻想的に点滅を繰り返して覚を闇の中で消したり、照らしたりする。覚は、父、総司の葬儀から半年、私のそばから付かず離れず、いろいろな話をしてくれる。

「君のような弱い鬼が鎮守の森に行くのは控えた方がいい」

 鎮守の森、それは神社に付随して参道や拝所を囲む森林のこと。あそこは神様の住む森だから、私のような半端な人間が夜に立ち入っていいところではない。

 そもそも、普通の人間でも立ち入ることは憚られる。けれど私はあそこにお婆様を連れて行きたかったのだ。

「神様なら、お父さんのところにお婆様を連れていってくれるでしょ?」

 そういうと覚は呆れたようにため息を付いた。

「人は空しいね」

 静かにつぶやいた声は、夜の鈴虫の泣き声にかき消されるほどに小さくて、そしてその言葉は私を人としてみている前提がないと言えない言葉だった。

 人、その定義は一体何なのだろう? 血と肉があること? それとも、心があること? この心臓が動いていること? お母さんのように誰かを酷く愛すること?

 わからないし、知りたくもなかった。

 父を愛せなかった母の気持ち。知りたくもないのに、その記憶の扉を開けてしまえば、わかってしまう。

 母は、本当に父の兄青士郎のことを愛していたんだと。

 父に対する罪悪感は今でも母の中にある。母は私に全てを託して死んでいけると信じていた。けれどそれは大きな間違いだった。

 母はいわば鬼の始祖。始祖の魂は脈々と受け継がれ、あの世に行くことはできない。母があの世に行くことができるのは、青士郎の生まれ変わりに殺された時だけだ。

 哀れだ。

 母は、好いた男を殺した罪悪感に苛まれて、今度は好いた男に殺される悲しさを背負わなければならない。鬼というのは哀れな生き物。

 それは母だけではなく、私も。

 夜の森の闇は人を飲み込む。暗がりでは自分の手のひらさえ眺めることはできない。闇の中で、私はふと思ったのだ。

 これが死なのかと。何もない、それが死ぬということなのかと。

 私は子を生めば死ねるのか? それとも母のように、鬼の呪縛にとらわれるのか?

 誰にも言えない心。きっと覚は気づいている。

 けれど、聞かない。言わないのだ。私はその理由を知っている。建前ではない本当の理由を。でも、知らないふりをする。きっとそれが続く。

 私が死を望んでいることを、触れないで欲しいから。知ってどうすることもできないから。私も、覚も何も言わないのだ。

「お祖母様はね。きっと自分のことしか見えていなかっただけなの。本当は優しい方だった」

 覚は目蓋を硬く閉じたまま、首を縦に振った。

「彼女はね。酷く怯えていたんだよ。不幸せというものに。酷く臆病なだけだったんだ」

 すれ違ってばかりだった。お母さんも、青士郎も、お父さんも。

「私、お祖母様のこと憎んでた。でも、同時に鬼の私を受け入れてくれたから感謝もしていた。……今は、悲しいのかわからない。わからないの」

「わからなくていいんだよ。知らなくていいんだ。悲しいことを無理にわかろうとしなくていいんだよ。君はそこまで強い人間じゃないんだから」

 それはある意味、衝動だったのかもしれない。

手放し、静かに浮かんだ魂の火を見送って、私はそっと覚に口づけた。

 暗い空に浮かんだのは、もうお祖母様ではない。言い聞かせた。

(妖怪と仲良くするものではありませんよ。あなたは私の可愛い孫。私は貴方を守る。何があっても、だから覚と仲良くするのはおやめ。貴方は人として生き、人として死なねばならないの)

お祖母様の声が聞こえた。でも、あれはお祖母様じゃない。そう言い聞かせた。そうすれば、私はもう悩まなくて済む。人と鬼との狭間で悩む必要などなくなる。

私が言いつけを破ったのは、これが初めてだ。

「私、バカでしょう?」

 彼は珍しく視線を下げて、表情を隠しながら笑った。

 息を飲んだ。私だってわかるのよ。彼が私を好きなことぐらい。

「どうせ、私より先に死んでしまうのに、本当に君は愚かだ」

 覚はそっとためらうように私に触れた。泣きそうな表情をみて、心が歓喜に震えるのがわかった。永遠の時間を共に過ごすことはできないことを知っていた。

 私が自身で死を望んでいることも知っていた。

 覚が、私に殺されたがっていることも……知っていた。

 悲しい結末しか辿らないことを知っているのに、それでも私は優しい覚に伝えたかった。この酷く濁るような激情を。

「私、あなたを食べたい。食い殺したいの」

 鬼の私にとってそれは愛の言葉に他ならなかった。

「本当に君は、難儀な子だ」

 苦しそうに笑いながら、そっとその細い指で私の目を隠した。

「約束をしてくれないか? 君が死ぬ時は私も死ぬ。これを守ってくれないか? 取り残されるのは、苦痛で仕方がない。君が食い殺してくれ。君にならいい。君にならこの瞳を食われても本望だ」

 目隠しをするぬくもりのない覚の手を優しく握った。

 私が死ぬには、人との子を産むしかない。覚ではない、誰かと交わらなければならない。でもそうしなければ、生きる度に鬼の力が増し、だんだんと人としての自我をなくしていくのだ。

 生きながらの死を選べるほど、強くなかった。

 母と同じだった。


 夏が近づいてきて、私は青葉が繁るこの季節が終わるまでは生きられないことを悟った。

 お腹の中には私の子供がいる。生まれてしまえば私は死ぬだろう。命も記憶も妖力もすべて奪われて、息絶える。母がそうだったように。

 回ってきた順番、いつかお腹のこの子もたどる運命。母になってようやくわかったこと。愛する人の子供じゃなくても、愛しいということ。

 死が近づいてきて、考えることはこの子には愛する人と幸せになってほしいということだけ。望んで子供を産んでほしいということだけだった。

「君は腹が膨らむ度に嬉しそうに愛でるんだね、その鬼を」

 覚は私の子供が憎いみたいにそういう。気持ちはわからなくもなかった。反対の立場だったらきっと私もこの子が憎いだろう。

 けれど、私はこの子が愛しい。この子のために死ねるなら、そんな幸せなことはないと思えるほどに、愛しく感じている。

 だから正直、覚にそういわれるのが嫌だった。大事な我が子を鬼と言われたくはなかった。一滴こぼした涙で、覚は黙る。

 私は覚に抱かれたことは一度もない。覚との間に子供ができることもない。この幸せは覚とは築けない。

「人が人としての幸せを手にいれて何が悪いの?」

「君は私が好きなんだろう?」

 覚が怒る気持ちもわかるのに、私はこの子も、この子をくれた椿野も愛していた。

 人としての夢を見せてくれて、母にしてくれた彼を愛していたのだ。

 覚との距離が空く度に、椿野との距離が縮まって、いつしか中挾されるようになっていた。

 子と主人に私を奪われて、私の望む幸せを与えられない覚。気持ちを考えただけで、息がつまった。

 私も覚を離してあげればいいのに、できなかった。

 一人で死ぬことが怖かった。身勝手にも覚に忘れられることも怖かった。何より怖かったのは、私がいなくなっても彼が平然としていることだった。

 自分の弱さが、覚を想っての行動をさせてはくれなかったのだ。

「……私のこと好き?」

 答えてくれない。わかっている。本当しか言えない覚はあえて嘘を言わないために答えないことを。

 私を幸せにできないのに、そんな無責任な言葉を吐けないんだと私は知りながら問うのだ。

 一言でよかった。私と幸せになるといって欲しかった。そばにいることしかできなくてもよかった。ただ何も言おうとしない覚の優しささえ愛しいのも事実で、私も問うことしかできなかった。

 答えも、その沈黙の優しさも何もかも欲しかった。

 月が高いところに上がり、一層眩しく辺りを照らす夏の夜。私が出産を控えた前日のことだった。覚が初めてその言葉を口にした。

「君が羨ましかった」

 響鬼の縁側に腰をかけて一緒に月を眺めていた。ふいにそんなことを言うものだから、私は思わず目を見開いて動けなくなった。

「愛情を素直に人に求めることのできた君が、羨ましかったんだ。私は人の業から生まれた。だからかな? 君のような愚直さが眩しく映った」

 私はその言葉に聞き入ってそっと覚の手のひらに自分の手を重ねた。覚は抵抗しなかった。

「いつしか君に求められたいと願うようになった。君のその切実さで自分を求めて欲しくなった。それが愛じゃなくても、恋じゃなくても、私はそれを愛と呼びたくなった。……何も与えてさえあげられないのに」

 初めて覚が泣くところをみた。人の業で生まれたという妖怪、そんな妖怪がこんな綺麗な涙を流すのなら、きっと人の業は人の切実な願いの塊だったのではないかと思った。

 彼はなれないものに憧れ、なれないものに恋をしたのだから。

「君を愛している。君が死ぬ前に伝えたかった。それが例え恋じゃなくても、私はこの気持ちをそう呼びたい」

 なんでもっと早く言ってくれなったんだろう。もっと早く言ってくれれば私は迷ったりしなかったのに。私は覚に抱きついて泣いた。涙がこんなにも目の奥に溜まっていたのかと驚くほどに、あとから溢れて止まらなかった。

 今度は私が覚に愛してるなんて言えなかった。覚に言われた瞬間、私はもう彼と一緒に死ねないほどに彼を愛してしまったから、もう安っぽい言葉なんかじゃ追い付かないほど彼を愛してしまったから、なにも言えなくなってしまった。

 私は彼を裏切ることになると、予感していたのに言えなかった。

 陣痛が起きたとき、私はあまりの痛みでのたうち回った。出産の痛みは計り知れない。そして鬼の魂が引き剥がされる苦しみも耐えがたいものだった。

 そのとき、必死になって握ったのは椿野の手だった。

 椿野は涙を流して私を見ていた。私を愛していた。私も受け入れてくれた彼を愛していた。覚は遠くから私を眺めて、その時がくるのを待っていった。

「一緒に逝けるね」

 小さく聞こえたその声で私は痛みで遠退いていた意識をはっきりさせた。

「一緒に、逝かないよ。覚は……このお札の中で、眠るんだから」

 青い風が走る。その風は優しくけれど、逃がさないように覚を押さえつけた。畳に押し付けられる覚は目を見開いて叫ぶ。

「……どういうつもりだ!!」

「死ねないよ……。一緒になんか死んであげない」

「妖芽!!」

「あなたと一緒になんか死ねない!!!」

 青い風が人となって覚にお札を近づけていく。

 覚は舌打ちをして、式神を睨みながら叫ぶ。

「愛してるなら、共に逝こう。君を一人にしない。したくないんだ」

 その言葉が人生の中で一番嬉しかった。一人にしないでと父に泣きすがったあの感情を、覚は知っていてくれた。

 だから私は言うしかなかった。

「ごめんなさい」

 覚は目を見開いて怒鳴った。

「裏切りもの!! 君は私に一人生きろと言うのか!!?」

「ごめんなさい」

「許さない、死ぬことも殺さなかったことも!! 君が幸せに死ぬことも許さない……せめて生きてくれ。愛されなくてもいい、一緒に死ねなくてもいいから、死なないでくれ」

「ごめんなさい……。ごめんなさい」



 私が死ぬ寸前、赤子の声が聞こえた。私の赤ちゃん……。いろんな気持ちが溢れてつらくて嬉しくて、私はただ願った。

「瑠璃……、どうか死ぬまで幸せに」

 赤子は涙を流しながら、息絶えようとする私に手を伸ばしていた。

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