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苦しむ人の心を救うために周りの人ができること | 自省録#6

私は人生の中で、「苦しみ」についてよく考えていたなと思います。

でも、これまで、どうしてもスパッとした答えが見つかっていなかった一つの問いがありました。

ズタズタになった心を救うにはどうすればいいのか?
追い詰められた心を救うにはどうすればいいのか?

という、傷に対するケアのハウツーです。

これに対する答えが、わかったような気がしたのでこのnoteを書きました。


最初私は、人の心を救うのは、痛みを一緒に背負ってくれることかと思ってました。
こう思っていた理由は、過去に苦しくてたまらなかった時、とある人が胸を貸してくれて泣かせてくれたことがありました。それが一番救われた気がしていたんです。
泣いていいよ、気が済むまで泣きな。と。

なぜこれに救われたのか、当時の私なりの解釈としては、その人が一緒に痛みを背負ってくれたからだ、と思ってました。
一人で抱えるには重すぎる荷物を、半分個して持ってくれたから救われたんだと思ったんです。

でもそうじゃなかったんです。
その人は、一緒にその重荷を背負ってくれていたのではなく、その重荷を下す場所を提供してくれていたんです。

そう、まさに今この瞬間苦しくてたまらないというボロボロの心に栄養を与えてくれるのは、

辛い、苦しい、しんどい。
そういう真の感情をそのままさらけだせる”フィールド”が与えられた時。

なんだと思ったのです。

相手の苦しみ痛みを受け止めてあげることとは、そういうことだと思ったんです。

谷底で一人、訪れるかもわからない救いの手を待ちわびながら床を濡らす人たちにとって、
「それはしんどかったね」
「それは辛かったね」
という言葉がどれほど救われるか。

こういう言葉は、苦しむ人たちに、苦しい気持ちをさらけ出してもいいんだという安心感を与えます。

まさに今苦しんでいる人たちに必要なのは、分かるよという安直な共感でもなく、解決策やアドバイスでもなく、安心感のある場をもらえることなんじゃないかと思ったのです。


こういう場面でやってしまいがちだなと思うものも列挙してみます。

・他の人の方がもっと苦しんでるよ!と他の人の苦しみと天秤にかけてしまうパターン
↑苦しみというのは完全な主観なので、そもそも苦しみ痛み辛さなどの感覚の強弱は他人と比べるものではないと思っています。自分ではない他人の痛みと天秤にかけ、その人の方がもっと辛いよと言われると、理解してもらえていないいう絶望感が生まれ、余計苦しくなるから絶対にこれはダメだと思ってます。

・その気持ち分かるよ、私も昔こんなことがあって...と勝手に共感するパターン
↑時と場合によると思うけど、一緒にしないでほしいと感じてしまう可能性があります。簡単に共感されたくもない時はあるものです。

・こうした方がいいんじゃない?とアドバイスするパターン
痛みを感じている当事者にとって最も重要事項は、今のこの痛みを取り除くこと。そういう心の痛みは、合理的解決ではなく、精神的寄り添いの方が圧倒的に強いと私は思ってます。


もしあなたの周りに何かで苦しんでいる人がいるならば、

ぜひ、その苦しみを素直に出してよいという心理的安全性を確保し、その感情を嘘偽りなく吐き出せる場所になってあげてください。

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