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チェチェン戦争から見たロシア軍のウクライナ侵攻


                青山 正(チェチェン連絡会議代表)

 2月24日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まりましたが、その後世界各地で侵攻に抗議する行動が広がりました。日本においてもかつてのイラク反戦デモなどに比べれば規模としては小さかったものの、各地で様々な抗議行動が繰り広げられました。私の住む長野県においても、高校生たちが呼びかけたデモが初めて行われるなど、今までにない広がりが感じられました。これだけあからさまな軍事侵略行為を行ったロシアに対して、抗議の声が上がるのは当然のことだと私は思います。

 その一方で、一部の平和運動サイドややリベラル寄りの識者の間から出されてきた主張に、私は違和感を覚えざるをえませんでした。それは概ね「悪いのはロシアではなく、挑発を繰り返してきたウクライナや米国・NATOの方だ」というものです。あるいはそもそもこの戦争を仕掛けたのは、米国のネオコンや軍需産業だという陰謀論まで唱える人々もいます。もちろんウクライナや米国・NATOにもまったく問題がなかったとは思いませんが、一方的にウクライナに侵攻し、破壊と殺戮の限りを尽くしているロシア軍に対して、結果として擁護するような発言は、まさにプーチン大統領のプロパガンダに乗っかったものとしか思えません。背後にどのような陰謀があったとしても、プーチン大統領の決断した今回の侵攻は決して許されるものではありません。しかも、次第に明らかになったロシア軍の様々な蛮行=虐殺、略奪、女性への性暴力、選別収容所での拷問やロシア国内への強制連行などは、明白で重大な戦争犯罪です。その戦争犯罪を問わずに「悪いのは米国・NATO」とは絶対に言えないと思います。

 ロシア軍の戦争犯罪は今回が初めてではありません。それは私が関わったチェチェン戦争で行われてきたことでした。それだけにウクライナへの侵攻が始まり、その後住民虐殺などの戦争犯罪が明らかになり、私は「これはまさにチェチェン戦争と同じではないか」と思わざるをえませんでした。

 ロシアからの独立をめざすチェチェンを武力で押さえつけるために、第1次チェチェン戦争は1994年12月に始まりました。それを伝えたのはとても小さな新聞記事でした。「チェチェン国境において人間の鎖で抗議するチェチェン人の女性たちを押しのけて、ロシア軍の戦車部隊がチェチェンに侵攻を開始した」というものでした。その記事を目にして気になりながらも、結局私は何もできませんでした。しかし、翌年の春にチェチェンのサマーシキ村で、ロシア軍による住民の大量虐殺事件が起きました。

 その事実は、当時ロシアで布教活動を行いながら、チェチェン戦争に反対する平和行進をモスクワからチェチェンの首都のグロズヌイまで行っていた、日本山妙法寺の僧侶である寺澤潤世さんが、日本に戻り伝えてくれました。その平和行進はロシアやチェチェンの女性たちも一緒でしたが、彼らがチェチェンで最初に入った村がサマーシキ村でした。その村での残酷な虐殺事件を知って、当時「ピースネットニュース」というミニコミを発行しながら平和運動に関わっていた私は、「自分たちが侵攻を黙殺したことがこの虐殺を許すことにつながったのではないか」という自責の念に駆られました。
 寺澤さんとの出会い以外にもいくつかの偶然もあり、私はチェチェン問題に関わることになり、新たに「市民平和基金」というNGOを1995年に立ち上げました。1996年夏には、チェチェン戦争に反対していたチェチェンの女性団体の代表とロシア兵士の母委員会の代表、そして寺澤さんを日本に招き、チェチェン戦争の平和キャンペーンを日本各地で行っています。その当時チェチェンではロシア軍の攻撃によりすさまじい破壊が進みましたが、結局勇猛で士気の高い小国チェチェン側が、士気の劣る大国ロシア軍を追い詰め、その後停戦となりました。

 チェチェン共和国の大統領と国会議員選挙が1997年1月に行われた際には、チェチェン側からの招請により、市民平和基金から3名が国際選挙監視団の一員に加わっています。市民平和基金はその後もチェチェンの難民支援などに取り組んできました。

 しかし1999年にモスクワでのアパート連続爆破事件(後にロシアの情報機関FSBの要員による自作自演のテロ工作だったことが判明)を理由として、当時のプーチン首相が一方的に犯人はチェチェン人だとデッチ上げ、チェチェンへの大規模無差別攻撃を開始し、第2次チェチェン戦争が始まりました。それは「反テロ」を名目にした徹底的な破壊と殺戮でした。しかしながら国際社会は、このチェチェンでのロシア軍による戦争犯罪に抗議することは一切ありませんでした。

 そしてプーチン氏は第2次チェチェン戦争での功績により大統領に上り詰めました。ロシアはその後プーチン大統領の強権政治の下で、ジャーナリストへの暗殺・迫害が続き、言論の自由が狭められるなど民主主義への圧迫が強まりました。

 プーチン大統領は2008年にジョージア(グルジア)内の南オセチアとアブハジアの分離独立を狙って軍事侵攻し、さらに2014年のウクライナのクリミア半島への侵攻による一方的併合とルガンスク、ドネツクの親ロシア派自治区での戦闘など、一貫して周辺諸国への軍事侵攻を繰り返してきました。その挙句に行われたのが今回のウクライナ侵攻に他なりません。結局、チェチェン戦争での国際社会の黙認が、ロシア軍のウクライナ侵攻につながっているのです。

 このところヨーロッパの一部の国や日本の中でも早期の停戦を求める声が出ています。しかし、停戦さえすれば平和になるわけではありません。第1次チェチェン戦争の停戦時に偽りの「テロ事件」を理由に第2次チェチェン戦争が始まったように、ただ停戦するだけでは問題が解決しません。ロシア軍が完全に撤退し、戦争犯罪に対する責任の追及も含めて国際社会がきちんと監視していかない限り、ウクライナには平和は訪れないでしょう。今こそ日本を含めた世界の市民がウクライナの平和のために声を上げ、ロシアの蛮行をやめさせるべきです。それは言論の自由をはじめ、あらゆる自由が奪われているロシアの民主主義の回復にもつながるものです。私は軍事同盟ではなく、平和と民主主義を求める世界の市民の連帯した力によって平和を実現したいと願っています。
ウクライナに平和を!

                        2022年6月17日執筆

(写真は2000年3月に第2次チェチェン戦争の緊急現地報告会のため来日した、ロシア人の聖職者とチェチェン人の女性団体代表による記者会見の模様)

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