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ハイリゲンシュタットの遺書の家

大学1年生の後期試験が終わった後、次の課題の曲を渡された。

そこには、
『ベートーヴェン 
ピアノ協奏曲 第3番
全楽章』と
書いてあった。

始めに見た時は、協奏曲ではなく、ソナタだと思った。もう一度見たら、協奏曲と書いてあった。

協奏曲って、オーケストラが伴奏する曲のことだよねと漠然と思ったのをよく覚えている。
しかも、第1楽章だけでなく、全楽章と書いてある。
どんな楽譜だろうと思って、ライブラリに行ってみた。
何と、60ページもある楽譜だった。
こんなに長い曲を今までに弾いたことがない。
それを2か月の春休み中に練習しなければならない。
帰省するのを辞めて、毎日かなりの時間練習することにした。

それで、4月になり、2年生になった。
初めてのレッスンは、もちろん、暗譜で弾いた。クラスのみんながいる中で弾いて、ものすごく緊張していて、クラクラしながら弾いた記憶がある。
先生は、大学卒業後にウィーン国立音楽大学に留学し、留学中にベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾いたそうだ。
そのため、この時のレッスンは、1音1音厳しかった。ある時は鉛筆が飛んできたほどだ。
毎週のレッスンは、怒られ過ぎて、次はどんな名言が飛び出すかと思いながら行ったこともあった。本当に、私の時だけ、なぜそこまで厳しい?と思ったこともあった。
前期試験の曲はブラームスを渡され、入試の時から一緒の同級生はショパンを渡されたときに、やはり指を鍛えて、音を深くしたいと先生は思っているのだなと思い、厳しかった意味が分かった。
入試の時から一緒の同級生は、ベートーヴェンの音でもともと弾ける人たちだったが、私は、ベートーヴェンの音に程遠かったのもあったと思う。
しかし、私にとって初めてのピアノ協奏曲。先生が得意としているベートーヴェンのレッスンを受けられたのは貴重なことで、弾けば弾くほど、好きな曲になっていった。厳しいレッスンのおかげで、だんだんとしっかりした音になっていったのが分かった。
私が買った楽譜にカデンツァがなかったため、先生がウィーンで買った楽譜を持ってきて、コピーさせてもらった。そこには、先生の先生が書き込んだドイツ語が書かれていた。
レッスンがすすむにつれて、オーケストラの伴奏部分を先生が弾いて、合わせたこともあり、先生の音楽の作り方とか、ものすごく勉強になった。
ベートーヴェンに関する伝記なども読み、ハイリゲンシュタットの遺書を書いた1年後に完成したことを知った。いつか、ハイリゲンシュタットのベートーヴェンの家に行ってみたいなあと思った。

学生時代は、外国へ行くお金などないから、社会人になってからになるだろうと思った。
2006年は、モーツァルト生誕250周年とテレビなどでも大騒ぎをしていた。それで、2006年12月になって、オーストリアに行ってみたいと思い、旅行会社のパンフレットを見た。
年末年始のツアーなら、ぎりぎりモーツァルトイヤーにオーストリアに行けそうだと土壇場で思った。
しかし、旅行会社に行くと、もうほとんどのツアーが定員に達していて、募集しているところは、1つだけだった。そのツアーは、チェコ、オーストリア、ハンガリーと3カ国行くもので、モーツァルトが生まれたザルツブルクは入っていなかった。
パスポートさえ作っていなかったから、12月中旬にパスポートを作り始め、年末出発にギリギリ間に合わせた。
スーツケースも、ダウンコートもブーツもなかったから、それらも急いでそろえて、なんとか間に合った。

ウィーン滞在中の午後は自由時間があるとパンフレットに書いてあったから、ハイリゲンシュタットの遺書の家に行くのなら、この時しかないと思った。
早く自由時間になってほしいなあと思ったが、自由時間になったのは、夕方4時頃だった。
ウィーンの12月の夕方4時と言えば、薄暗くなっている。
添乗員さんも現地ガイドさんもハイリゲンシュタットの遺書の家へ行くことをすすめなかった。
でも、私はどうしても行きたかったから、現地ガイドさんに行き方をきいた。
「Dのトラムに乗っていって、坂道を上る」ときいた。
前日、切符の買い方の下見をしていたから、1回券を買って、Dのトラムに乗った。
乗ってからしばらくしてから、そういえば、下りるところを聞いていなかったことに気づいた。
トラムに乗ったもののどこで降りるのかを聞いていなかったため、分からない。いよいよ困って、前に座っている人にドイツ語できいてみる。その人は、ハイリゲンシュタットの遺書の家のことを分からないようで、他の人にきいてくれる。その時、ハイリゲンシュタットという看板が目に入り慌てて降りる。看板の所まで走って戻るが、自分がどこにいるかも分からないので、近くのスーパーに入って訊く。ハイリゲンシュタットときいても、店員さんは分からない様子なので、「ベートーヴェン・ハウス」ときくと、店員は、「ベートーヴェン・ガング」だと思って説明する。親切なお客さんが絵をかいたりして説明してくれる。

ベートーヴェン・ガングへ道をヒントに、今、自分がいる場所が分かる。
トラムの切符もないから、歩いて行くことにする。
スーパーを過ぎたら、お店は1つもなく、真っ暗。12月30日で年末だから、途中5,6人の少年たちが爆竹をならしている。おそろしいので、フードをかぶり、日本人と分からないようにする。
ガイドの「坂をのぼる」という言葉を信じて、左に曲がる。

ここも住宅街で真っ暗。
雪もあり、何度も引き返そうと思った。
でも、近いはずだから、行けないのは悔しいと思い、歩く。
マイヤーの家らしいものがあったから、この方向であっていると確信するが、次の曲がり角でだめだったら帰ろうと思った。
すると、「ベートーヴェン・ハウス」という看板が見えてきて、矢印の方向に行き、やっと着いた。正確な時間は覚えていないが、30分くらい歩いたと思う。

中に入ると同時に感動。

受付の人に、
「学生は1ユーロ。大人は2ユーロ。あなたは、学生か?」ときかれたから、「大人」と答えた。よく聞き取れたのに、言葉が分かっていないといけないということで、たまたまいた日本人に通訳を頼んでいる。意味が分かっていることが分かると2ユーロ受け取ってくれた。
遺書の訳したものを渡され、遺書を見る。
読み始めると、郊外へ来たベートーヴェンの気持ちがよく分かり、感動し、涙が溢れだした。
途中歩いたおかげで、中心部からいかに離れているかも分かったのもよかった。
きっと、ツアーとかで、バスで来て、玄関横づけで「ここがベートーヴェンの遺書の家ですよ」と言われたら、こんなにも感動しなかったと思う。
また、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いたときから行きたかったところで、思い入れも強かったから、余計に感動したと思う。
管理人さんには、
「200年も前の話だから、泣かないで。」と、言われ、帰る前に一緒に写真を撮った。

ハイリゲンシュタットの遺書を訳してネットに載せている人がいたので、一応載せる。

これは、博物館で買った絵葉書。

これも絵葉書だが、この場所で、管理人さんと一緒に写真を撮った。

2006年12月に一緒に写真を撮って、2007年8月にもう一度行ったときに写真を渡した。そして、2008年1月に行ったときは、管理人さんが変わっていて、新しい管理人さんに、「亡くなったよ」と言われた。

ちなみに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、こういう曲。


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