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伴奏法の学び直し

だんだん記憶があいまいになってきているが、大学在学中に伴奏を119曲弾いたはず。
曲数は、記憶があいまいだが、歌曲やオペラの伴奏をたくさんしたことは確かである。

ピアノのS先生の初めてのレッスンで、「レッスン室では、絶対に暗譜。」と言われ、大変なところへ来てしまったと青ざめたのを昨日のように覚えている。高校までのんきにピアノを弾いていたので、必死に練習しないとならないと思った瞬間だった。
先輩たちからレッスン室に入るだけで心臓が飛び出そうになるとか、S先生の名言をいろいろ聞いていたが、毎週のレッスンは結構緊張して行った。
まあ、レッスンの方が緊張して、本番はそれほどの緊張もなく弾けるという状態になった。
入試の時から期待されていたからこそ、余計に厳しかったと思うが、大学の4年間のピアノ修行は充実していた。

1年生

初めての伴奏は、同級生のイタリア歌曲だった。そんなに難しい曲ではないし、ピアノの先生にレッスンしてもらわずに、テストの伴奏を弾いた。

次は、秋のコンサートの伴奏だった。自分のソロの曲もあるが、先輩から椿姫とメリー・ウィドウの二重唱の伴奏を頼まれた。
なぜ、この伴奏が来たかというと、先輩が伴奏者を探していて、ピアノのS先生に訊いたところ、私に頼むように言われたらしい。
これが、私にとって、初めてのオペラの伴奏だった。
前回の同級生の試験の伴奏のように、先生に見てもらわずにというわけにはいかず、ピアノのS先生にみてもらった。もちろん、ぼろくそに言われ、歌のレッスンについていき、歌のI先生からも「へたくそ」と言われた。
しかし、この二重唱を歌った女の先輩から、私のピアノの音が好きと言われ、専属ピアニストになってと頼まれた。
後期試験の伴奏も頼まれて弾いた。
後期試験は、4年生の卒業演奏会とも時期が重なった。しかも、卒業演奏会の伴奏もなぜか2人から頼まれ、1年生として伴奏をする初めての人になった。
また、3年生のNさんからも後期試験の伴奏を頼まれ、合わせの時間なども調整して練習していた。
もちろん、ピアノの先生にもこれらの伴奏を見ていただいたのだが、初めて見せようとしたときは、製本の仕方がまずくて、怒られ、見てもらえなかった。
いろいろあったけれども、卒業試験の伴奏を無事に終え、後期試験の伴奏も終わった。
後期試験が終わった時に、練習室の廊下の前で、声楽のK先生にばったり会った。そして、「君、伴奏がうまいね。Yさんの伴奏は、雰囲気も良くてものすごくよかったよ。」と初めて褒められた。さらに、「僕の生徒のI君とYさんの伴奏も弾いてよ。」と頼まれた。

2年生

2年生になると、Yさん、Iさん、Yさんの専属ピアニストとなり、声楽のレッスンも可能な限り一緒に行った。

忙しくなり過ぎて、Nさんの伴奏を断らないとならなくなったが、Nさんの伴奏には、全国大会2位の1年生をすすめた。

Iさんは、声楽だけでなく、リコーダーも演奏する人で、卒業演奏会はリコーダーを演奏するということで、チェンバロでの通奏低音も私がすることになった。

Yさんは、声楽のS先生のクラス。S先生の指導は怖くて、先輩を怒っているのに、伴奏者の私が泣きそうになっていたことがあった。レッスンの録音を毎回とっていたが、今聞いても、怖い。

Iさんのリコーダーの通奏低音レッスンは、リコーダーの先生が忙しすぎて、毎週レッスンができない時期もあった。

IさんとYさんの声楽のK先生のレッスンは、時間帯があわず、毎回同行できなかったが、レッスンしていただいたときは、いつもK先生に褒められた。IさんとYさんは、低声なので、以前弾いたことがある歌曲でも、調が違って、だいたいフラットやシャープが多いことが多かった。K先生は、私たちの指導に加え、ヨーロッパの舞台で本番をいくつも歌っている人だったので、オペラの指導は、ものすごく勉強になった。

2年生の時は、忙しかったが、1年の時よりも伴奏のコツを少しつかめてきた。卒業演奏会でのIさんとYさんの伴奏は、審査をした多くの先生方から褒められた。

3年生

そして、3年生。
1年生の秋のコンサートで1つ上の先輩の歌を聴いて、こんなに上手な人がいるんだあとびっくりしたM先輩の伴奏をすることになった。それまでは、先輩の同級生が専属で伴奏をしていたのだが、卒業演奏会は、同級生だといろいろ忙しいということで、私が引き受けた。
学年が始まってすぐ、声楽のS先生から、シューマンの「詩人の恋」を渡されていた。私にとって、シューマンはいい印象がなかったのだが、声楽のS先生とその奥さんで伴奏ピアニストのS先生は、藝大在学中に「詩人の恋」を演奏して、いい仲になったらしい。
私と先輩のMさんの間でそういうことにはならなかったが、このMさん、おだてるのがうまく、絶対に褒めるので、16曲ある「詩人の恋」の伴奏をほとんど初見で弾いて合わせつつ、あれよ、あれよという間に16曲全曲弾いていた。伴奏の数が多すぎて、譜読みが早くなったし、かなりコツもつかんだ。
そして、この先輩はコンクールを受けることになった。
1年生の時からのピアノのS先生に伴奏を見てもらってもいいが、声楽のS先生の奥さんは、伴奏ピアニストで演奏をしている人。だから、一度、声楽のS先生の奥さんにレッスンしていただくことになった。もちろん、ピアノのS先生の了解もとって。奥さんのレッスンは、最初で最後だったが、充実したものだった。ちょうど、オペラの歌曲の伴奏も見ていただいたのも良かった。

また、同級生でいい声をしている子の伴奏も弾いていた。本当にいい声で、ロシア歌曲も歌えるから、少しロシア歌曲の伴奏もできたのは、私にとっては嬉しいことだった。しかも、リムスキー・コルサコフの歌曲だった。
最近知ったのだが、声楽のS先生の藝大の卒業演奏会では、チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」からレンスキーのアリアを歌ったそうだ。だから、珍しくロシア歌曲も学生に指導することが多かった。

4年生

4年生になると就職活動もあるし、卒論もあるし、自分の卒業演奏会もあるから、あまり伴奏を引き受ける人はいなかったのだが、なぜか、後輩の伴奏もいくつか声がかかり、秋のコンサートに出ることになった。

また、同級生の後期試験の伴奏も気付いたら、全員のを弾いているという状態だった。
そして、同級生の中で、シューマンの「女の愛と生涯」を歌った人がいて、その伴奏を弾いたのだが、試験が終わった後、声楽のS先生から非常に褒められた。
3年生の時に「詩人の恋」、4年生の時に「女の愛と生涯」に取り組めたことは、本当に大きな財産となった。

大学の4年間で、複数の声楽の先生のレッスンについて行き、それぞれの先生から演奏法などを学べ、得るものが大きかった。

就職後

基礎というか、コツというかを習得できたので、就職後も短時間で、場合によっては、初見でできてしまう状態になったのは、強い武器となった。

例えば、「1週間でこの4曲(決して簡単な曲ではない)を仕上げて」と頼まれた場合でも、何とかなった。

別の時は、「3曲お願いね。」と頼まれたはずなのだが、チラシが出来上がって、見たら、「9曲」になっていたという場合でも、何とかなった。

伴奏者の力量で本当に歌いたい歌を選択できない場合もあるけれども、何でも弾けるから、伴奏の力量を考えずに純粋に歌だけで選択できるのが助かると言われた。そして、最後に頼まれた曲は、ちょっとやそっとで弾ける曲ではなかった。指番号も念入りに書いてさらった。

ロシア連邦で

ロシア連邦に移住するときに、電子ピアノをアエロフロート航空で運んだ。

就職後も大学の時のピアノのS先生のレッスンに2か月に1回ずつ通い、毎年発表会にも出させていただいていた。そのS先生に夫が初めて会った時に、「必ずピアノを弾ける環境にしてください」と話したらしい。
私は私で、スヴィリードフの曲を弾きたいというのがあった。
スヴィリードフ関連の情報をモスクワでせっせと集めて、やはり歌曲の伴奏を学び直している。スヴィリードフに関する文献は日本にほとんどないため、モスクワでロシア語文献を探して、読んで、訳してという作業もしつつ学んでいる。(だから、なかなかすすまないが、楽譜を入手できるかどうかは調べ終えた。)

また、私がロシア好きになったきっかけのオペラ「金鶏」の楽譜も運よく古本で見つけて、こちらもさらっている。
大学時代にオペラの伴奏を弾いたと言ってもアリアや重唱部分を弾いただけで、オペラの最初から最後までというのはなかった。
それが、今は、「金鶏」のオペラを最初から最後まで弾こうと思って、絶賛譜読み中。
対訳もないから、自分で歌詞を訳した。
「金鶏」のオーケストラスコアを見て、どの部分をどの楽器が演奏しているのかも楽譜に書きこんでいる。それをしながらの譜読みだから、こちらもゆっくりすすんでいる。
今後は、歌いながら弾くというのも取り入れていく。

昔取った杵柄で、手順というか方法はイメージできているから、あとは、ひたすら練習あるのみ。リムスキー・コルサコフ独特の和音の響きを楽しみながら弾いている。

作曲家が生まれて、生きた国でさらうのは一味違う。その土地の気候や風土に触れて、発見することもある。

#私の学び直し

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