見出し画像

山野弘樹『 「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?』を読んで

 先日、初めて哲学誌『フィルカル』を買った。

 お目当ては山野弘樹氏の論文『「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?」』である。今年の3月頃から、アニメやYouTube動画を観る体験と明らかに異なる感触がある「VTuber」文化に興味を持ち、研究しているのだが、その中で山野弘樹氏がTwitterで日頃発信している理論はとても参考になる。

 7月には哲学若手研究者フォーラムにて「VTuberがVTuberとして現出するということ」の発表が行われた。今や、テレビ番組にもゲストとして出演することが多くなってきたVTuber。自分の働いている会社にも来年の新卒入社でVTuberをやられている方がおり、着実に社会に浸透しつつある。しかしながら、いざVTuberのことを知らない方に説明しようとしても意外と難しい。何度か映画関係の飲み会で「ピーナッツくん」の概念を説明しようとしたのだが、非常に苦労した思い出がある。また映画研究者の間でも、VTuberについて言及しようとしている著書はあるものの、漠然としたVTuber像に留まっている印象がある。

 山野弘樹氏の論文は入念な先行研究のもと、従来の理論の脆弱さを明らかにし、新しい理論を提案する形をとっている。さて、『「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?」』を読んでみた。先日の論文発表の資料と比べると非常に難しい内容であったため、今回は理論を図に落とし込み、自分の知っているVTuber動画の例と照らし合わせて情報の整理を行なっていく。


1.「配信者説」と「虚構的存在者説」について

 山野氏は、「VTuberとは誰か?」と問いを立て、まず浮かぶであろう2つの構図を導き出す。

1.1.VTuber=配信者説

VTuber=配信者説

1つ目は「配信者説」だ。配信者が顔出しするのではなく、コンピュータグラフィックス等で作られた架空のキャラクター(=アバター)を用いて配信しているという見方だ。

 これで連想されるのは甲賀流忍者!ぽんぽこさんとピーナッツくんである。二人は配信内容に併せて次々とアバターを切り替えることを得意としている。これらの動画を観ると、VTuberの本質は配信者であり、アバターは替えが効くものだと考えられそうだ。

1.2VTuber=虚構的存在者説

VTuber=虚構的存在者説

 一方で、その反対の例がある。山野氏は黒嵜想のVTuberを東京ディズニーシーのアトラクション「タートル・トーク」に重ね合わせて説明している。アニメのキャラクターのように配信者が役を演じることにより現出するフィクショナルな存在だと。これを「虚構的存在者説」と定義している。VTuberで例えるなら、でびでび・でびるさんが該当するだろう。「恐ろしい悪魔」という設定のもと、可愛らしいアバターに即した発言に徹している。私もVTuberを調べ始めた頃は、「虚構的存在者説」を信じていた。理由として、

1.ドラえもんの声優が大山のぶ代から水田わさびに変わっても成立するように、VTuberもアバターに対して配信者は容易に変わることができるから。

2.『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』のような、即興で演技をしたとしても「役」から逸脱しない映画があることからVTuberの配信はアバターに即した演技がなされている。

の2点が挙げられる。

 しかし、VTuberの配信を100本以上観ていくと、これらの説が成立しない局面が現れてくる。

 にじさんじ所属のバーチャルライバーである物述有栖さんと宇志海いちごさんがアポなしで連絡を取る逆凸配信を観ると、「宇志海いちご」というアバターから一時休止していた時の苦悩の影が吐露される瞬間を目撃する。文野環さんと対談する場面で、物述有栖さんが彼女と宇志海いちごさんがライブで共演する予定だったことを口にする。すると、宇志海いちごさんが残念そうな口調で「その時、いちご死んでて、出たかったけど元気なくて…」と吐露する。これは明らかに虚構的存在から逸脱した状況が形成されている。この時、私はアバター「宇志海いちご」の側面と配信者の側面を捉えて配信を見ている。配信者の代替は不可であり、同様にアバターの代替も不可である。配信者とアバターが重なり合って顕現した「宇志海いちご」を観ていることになる。

2.VTuber=両立説の弱点

山野氏は、上記を踏まえVtuberにおける配信者とアバターは共に本質である「両立説」を深掘りしていく。そして配信者とアバターの相互作用において皇牙サキ氏の「ブースト型」と「ギャップ型」について説明している。

・「ブースト型」:配信者とアバターのイメージが一致する。→相互に魅力を引き立てる。

・「ギャップ型」:配信者とアバターのイメージが一致しない。→視聴者にインパクトを与える。

この2つに関して、私の身近な例から理解を深めていくとしよう。

2.1.ブースト型:しぐれういさん

イラストレーター、漫画家でありながらVTuberとして活動している、しぐれういさんは清楚なヴィジュアル通りの語りをしている。可愛らしいアバターと可愛らしい声が相互に魅力を引き立てている例であろう。

2.2.ギャップ型:ギルザレンⅢ世

 ギルザレンⅢ世さんは、高貴なヴァンパイアのイメージが強く、アバターを見た印象では野太い声を想像するだろう。しかし、実際の配信を観ると甲高く特徴的な声をしている。あまりのギャップに初見で衝撃を受けることは間違いない。これはギャップ型に属しているといるのは明らかである。

2.3.ブースト型とギャップ型混在例:でびでび・でびる

 ブースト型とギャップ型が混在するケースもある。でびでび・でびるさんが、鈴鹿詩子さんからBL用語のレクチャーを受ける配信で非常に面白い変化が確認できる。

 冒頭で自己紹介するでびでび・でびるさんは可愛らしい見た目と可愛らしい声により「ブースト型」であることが分かる。そんな、でびでび・でびるさんは鈴鹿詩子さんからいきなり「オメガバース」の説明を受ける。BL用語に疎い私にとって、彼女の説明は難解であり一度聴いただけでは理解することができなかった。

 しかしながら、でびでび・でびるさんは即座に彼女の説明を短くまとめていく。講義の中で、でびでび・でびるさんはBLコンテンツに相当詳しかったことが明らかにされる。やがて、先生/生徒の関係であった両者の立場は逆転し、でびでび・でびるさんがカウンセラーとなって彼女の悩みに助言する構図ができあがる。

 つまり、最初は「ブースト型」であったでびでび・でびるさんが、いつの間にか「ギャップ型」に豹変している状況が起こっているのだ。興味深いことに、冒頭で「おそろしいあくま、でびでび・でびるだぞー」と言及している。ブースト型と思っていたらギャップ型に変わるも、よくよく考えたら、でびでび・でびるさんが提示した「イメージ」と実際の態度が一致している。視聴者にとってはギャップ型に見えるが、配信者にとってはブースト型として配信しているユニークな例と言えるのではないだろうか。

2.4.VTuber=両立説の弱点

 ブースト型とギャップ型から説明されるVTuber両立説は、配信者とアバターが別物である発想が強固なものになってしまうと山野氏は危惧しており、VTuber=配信者、VTuber=アバターとして同一視されないような独立した存在者として理解する理論が必要だと提言している。

そして、難波優輝氏が提示した三層理論の脆弱さを指摘し、「穏健な独立説」を提唱している。

3.「三層理論」とは?

3.1.三層理論の要素

 難波優輝氏が提示した三層理論とはなんだろうか?非常に難解なものだったので、図に示した。難波氏の理論によれば、VTuber鑑賞を構成する要素として「パーソン」、「ペルソナ」、「キャラクタ」が挙げられるとのこと。そして、配信者(パーソン)のペルソナとキャラクタ(アバター)のペルソナが重ね合わせの状態となっている。配信者(パーソン)のペルソナを以下メディアペルソナ、キャラクタ(アバター)のペルソナをフィクショナルキャラクタと定義する。

 そして、パーソンは「メディアペルソナ」を演じるのではなく装うのだと彼は語っている。

 また、メディアペルソナがYouTube動画やテレビなどといった媒体を通じて配信者のペルソナを観る構図となっており、フィクショナルキャラクタが鑑賞者がアニメキャラクタを認識し、性格を把握する構図となっている。これが重なり合っている状態がVTuberなのだそうだ。

 この構図を当てはめた時、視聴者はどのようにVTuber鑑賞を行うのだろうか。「パーソン-ペルソナ」に傾いた状況と「フィクショナルキャラクタ-ペルソナ」に傾いた状況があることに気付かされるだろう。

3.2.パーソン-ペルソナ鑑賞とフィクショナルキャラクタ-ペルソナ鑑賞

 「パーソン-ペルソナ鑑賞」の例として私が以前、映画系VTuberである萩野ナイトさんの配信で話した回を挙げる。イルミネーション社の映画の話をしたのだが、この時私は「萩野ナイト」というアバターを認識しながらも、配信者と真剣な映画トークをした。「虚構さ」は希薄であった。萩野ナイトさんの発言からは、明らかにパーソンとしての語りが感じ取れた。

 「フィクショナルキャラクタ-ペルソナ鑑賞」の場合はどうだろうか、物述有栖さんが3.0新衣装を発表する配信では、様々な衣装に着替える彼女が、その衣装に即した演技を行なっている。彼女が提示するロールプレイを我々は鑑賞することとなり、その時パーソンのペルソナは希薄なものとなる。

 山野氏は難波氏の理論に対して、パーソン-ペルソナ鑑賞/フィクショナルキャラクタ-ペルソナ鑑賞と分けて考えることで、パーソンとフィクショナルキャラクタの相互作用の側面を閉ざしてしまう。三層理論であるが二層理論の意味合いが強くなってしまうと指摘している。VTuber論は、「配信者説」「虚構的存在者説」にあった問題のように、2つに分けることで、それでは説明できない状況が浮き彫りになっているところから始まっている。これでは振り出しに戻ってしまうのではないか?ここで山野氏は「穏健な独立説」を提唱している。

4.「穏健な独立説」とは?

4.1.アイデンティティ論を通じた分析

「XというVTuberは、配信者A及びアバターBが相互作用することによって現れるXである」という統合的な判断である。実際私たちは、VTuberを鑑賞する際に「この存在者は奥にいる配信者Aであり、かつ手前にいるアバターBである」という2つに分離された判断形態を取らない。

山野弘樹『 「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?』より引用

 彼は「アイデンティティ論」の観点から「穏健な独立説」を唱えている。物理的世界を生きる配信者とVTuberとしてのアイデンティティが切り離されていく状況を「身体的アイデンティティ」、「倫理的アイデンティティ」、「物語的アイデンティティ」から分析している。

・身体的アイデンティティ:VTuberとしての自分自身を「私」として受け入れること。

【例】甲賀流忍者!ぽんぽこさんが、ガチ恋ぽんぽこさんになることで「ぶりっ子像」としてのVTuberガチ恋ぽんぽこを「私」として受け入れる。

・倫理的アイデンティティ:設定や名前にのみ反応する状況。

【例】VTuberの配信において、配信者本人の名前を呼ぶのがマナー違反である文化。犬山たまきさんが、配信者である「佃煮のりお」と別人であるように振る舞ったり、ピーナッツくんが配信者としての自分を「ご主人様」と距離を置くことも倫理的アイデンティティの構築に関係した振る舞いと言える。

・物語的アイデンティティ:VTuber配信する中で、アーカイブが溜まっていき、一定の物語を生きる登場人物として配信者のアイデンティティとVTuberとしてのアイデンティティが切り離されていく状況。

【例】VTuberにはファンアートの文化がある。視聴者が配信を解釈し、イラストを描く。VTuberとしてのアイデンティティが切り出されて物語られていく光景を良く目撃する。例えば、ぽこピー「高校時代に戻ります。」動画をアップすると、そのサムネイルから派生して、ぽんぽこさんが平成ギャルをやっているイラストがファンアートとしてアップされた。

4.2.穏健な独立説

 これらを踏まえ、山野氏はVTuberは、

1.XというVTuberは、配信者A及びアバターBが相互作用することによって現れるXである

2.しかし、VTuberの存在が配信者の存在と完全に切り離されていることを含意しない。

と定め「穏健な独立説」としている。

 確かに、先述の通り萩野ナイトさんと対談した際に、VTuber「萩野ナイト」を意識しつつも、配信者の側面は切り離されることはなかった。また壱百満天原サロメさんの配信を観ていると、フィクショナルに感じるお嬢様セリフの影に、配信者が生きる世界での苦悩がチラついており配信者とVTuberを切り離すことができないのは明白である。

 一方で、山野氏も結論で「VTuberとは誰なのか?」という問いに十分答えられているとは言えないと語っているように、多様性に満ちたVTuberをこの理論で補えるとは私も思っていない。

 例えば、機械音声でVHS映画を紹介する小原マリアさんからは配信者の姿が希薄であり、代替可能な存在として映る。VTuberと配信者が切り離されているように見えるが、これはどう捉えるのか?これは実際に映画友達と話した時、小原マリアさんはVTuberなのか?と訊かれ、答えられなかった問いである。

 また、文化が成熟していくと「無」を描く人が現れる。絵画だとエルワーズ・ケリーが赤一色にキャンバスを塗った『ブロードウェイ』を発表している。音楽だと、ジョン・ケージ 『4分33秒』。映画では、デレク・ジャーマン『BLUE/ブルー』が該当する。VTuberにも存在する。強化人間さんだ。強化人間さんの自己紹介動画では、黒背景に透過画像のアイコンを置き、3分間「無」を描いている。配信者もアバターの姿もない。「なぜ、一体存在者があるのか、むしろ無があるのでないか?」と問いかけているような動画をどのように捉えるのか?

 また、おめがシスターズが最近、顔だけアバターの状態で配信することが多くなり、それに対して「仮面を被っているだけでVTuberとは言えないのでは?」との言説をTwitterで目撃したが、これを検討するためにはフィクショナルなキャラクタ像を掘り下げる必要がある気がする。

 今後、どのようにVTuber研究が進んでいくのか、山野氏の今後の論考含め注目である。

5.関連記事


映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。