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わたしの幼少期

特別名勝に指定されてる庭園の近くに3歳頃まで住んでいた。
専業主婦である母が家事をしてる間に、1人でその公園へ散歩に出掛けたりする事もあった。

近所にはテキ屋さん( 祭りとかで露天販売をする人たち )が多く住んでる地域だった為、散歩中にお裾分けを貰って帰る事も多かった。

例えば、

鯛焼き屋さんが餡子を炊いてる時に甘い匂いがするので、そこのお宅の前に座ってると、
「お茶碗持っておいで」
と声を掛けてくれるので、一旦家にお茶碗取りに帰る。

イカ焼き屋さんが外でイカを捌いてるのを見学してたら、いくつか袋に入れて持たせてくれる。

何かの事務所( テキ屋さんたちをまとめてる会社? 詳しくは教えてもらえてない )の前で座り込んでると、事務所のお兄さんたちが近所の喫茶店へ連れてってくれてミックスジュースを奢ってくれる。
など。

喫茶店から
「また来てるけど、ミックスジュースで大丈夫よね?」
と毎回電話がかかってきてたらしい。

奢られ体質はこの頃からのようだ。
まぁ、座って待ってる時点で確信犯のようだが。

近所に小さな公園もあった。
砂場で遊んでじんましんが出た。
遊具の少ない小さな公園で何をして遊べばいいのだろうか。
そこへ行く回数は減っていった。
そういえば今でも時々、庭仕事で痒くなる時がある。
何のアレルギーだろうか…。

妹が産まれ、しばらくしてから母方の祖母と同居する事に。
引っ越してからすぐくらいに、自宅にたくさんのお客さんが来た。
何かのパーティでもするのだろうかとワクワクしていたが、実際は祖父の葬式だった。

女の子に人気のアニメよりもガンダムとか特撮物を好む子どもだった。
リカちゃん人形よりも、父が持ってたマジンガーZの超合金に憧れていた。

最初に住んでた所が小さな借家だった為、わたしのお雛様はケースに入った小さい物だったが
祖母が建てた一軒家に引っ越したので、妹のお雛様は7段飾りの本格的な物を飾っていた。
居間と続きの和室に飾ってあったのだが、時々襖が少し開いていて、その隙間からお雛様や市松人形と目が合って怖かったのは今でも覚えている。

正直な所、超合金と市松人形は記憶にあるが、それ以外は全く記憶にない。
手がかからなくて、近所の人たちに育てられたと言ってもいいくらいの子どもだった...と母親から言われた事だ。

ただ、産まれる時は母が生死をさまよい輸血を必要とするほど難産だったようだ。

ちなみに本名の名前は最初ひらがなだったそうだが、出生届を出す際に父方の祖父が勝手に漢字にしてしまったそうだ。

これも母が言ってた事なので、わたしの幼少期は諸説あり状態である。

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