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#0フロリア-普通という名の中央値

都内の職場から電車で30分。
駅から住宅街を歩いて10分弱。

わずかに風呂の香りがする。
目当ての場所が見えてきた。

近くの風呂屋が潰れて3か月。

何か行き詰ったときや、
悩みがあるときは風呂で考え事をしていた私は
二番目に近いこのスーパー銭湯を訪れた。

歩いて通うには少し距離があったが、
比較的空いていて、小さいながらも露天風呂もあり、
私はすっかりここの常連になっていた。

この日も飲み込むにはやや大きい悩みがあり、
訪れていた。

お金を払い、受付でタオルを受け取ると
のれんをくぐる。

しかし、その日の悩みは根が深かった。

いつものように風呂に漬かりながら空を眺めても
納得のいくゴールに辿り着くことができず、
いい加減のぼせてきて、
エントランスの椅子で飲み物を飲みながら
再び無為な時間を過ごしていた。

いつもは飲み物を飲むと、すぐに帰ってしまうのだが
今日はどうにも帰れずにいた。

何かを探すようにゆっくりと視線を泳がせていると、
意外と知らないものがたくさんあることに気づく。

…?
この壁は何だろうか。
自分のいる休憩スペースの横だけ、壁が少し違う。

ぺたぺたと壁に沿って歩くと、左側に小さな通路があり、そこに一風変わったドアが現れた。

壁掛け看板…ウォールサインというのだろうか。

「フロリア」

と書かれている。
どうやら店の名前らしい。

名前の下に
Café&barと書いてある。

スーパー銭湯には似つかわしくないというのが率直な感想であった。

こういった場所の飲食店はフードコートのように、
開け放たれた同じ空間に位置しているものという印象が強いが、まるで別の空間と空間が一つの壁を隔ててたまたまくっついてしまったかのような、そんな異物感のある空間である。

上部に排煙窓のようなものはあるものの、中が窺えるような窓はなく、その一角のみが孤立しているような、不思議な空間であった。

少し排他的な雰囲気も感じ、入るのに勇気が必要だったが、今日の私はこのまま、何も解決しないまま帰るわけにはならなかった。

この店に行ったことで何か起きるとも思えなかったが、この気持ちのまま、今日という日を終わらせてはいけない、そんな焦燥感があった。

ぎい、と音を立てて恐る恐るドアを開けて顔を覗かせる。

向かい合わせの小さなテーブル席が一つとカウンター席が5つだけあった。

「いらっしゃあい。」

マスターと思しき男性が声をかけた。
それに反応するように、カウンターの2人がこちらをちらりと見た。

こういう空気は苦手だ。
不必要に視線を集める感覚。
そっと扉を閉めて引き返したくなった。

しかし、それを遮るように、マスターが

「好きな席にどうぞ。」

と柔らかく微笑んだ。

やっぱりいいです。とも言えずに
私は入り口から一番近いカウンターの椅子に
少してこずりながら座った。

「こういうところの椅子って、
   おしゃれだけど座りにくいのよね。」
「一回座っちゃえば意外と落ち着くんだけど。」

マスターが困った顔をする。

一番奥に座っていたメガネの青年がボソッと、

「 買ったのはマスターじゃん。」

とつぶやく。

そうなんだけどね。
とマスターは苦笑しながら、
私に手書きのメニューを差し出し、

「今日はどうする?」

と尋ねてきた。

「ここは…なんですか?」

カフェですか?と聞くつもりだったし、
バーですか?と聞くつもりでもいたのだが、

マスターの後ろの棚にウイスキーとコーヒー豆が
同じ段に並んでいるのを見た私は口をついてそう聞いてしまった。

ここはスーパー銭湯で、カフェバーで、
マスターの口調はオネエで…

自分の頭の中を見回したが、
ぴったりと型にはまるようなものはない。

率直に言えば変な場所だった。

「いわゆるカフェバーよ。」

「お酒が飲みたい人にはお酒を注ぐし、
 コーヒーが飲みたい人には豆を挽いてドリップするの。」

「 それが昼でも夜でもね。」

そういうとマスターはまた柔らかく微笑んで、
コップを拭き始めた。

メニューを眺める。

コーヒーや紅茶のメニューに並び、
ルイボスティーや緑茶など
多彩なメニューが手書きで書かれている。

その下にはビールやハイボール、ワインに日本酒、
紹興酒なんてものもあった。

軽食。
コンビーフマフィンに卵サンド。焼きそば。

…鮭のムニエル?

何でもありのようだ。

いくら今日は勇気のある私でも
初めて入ったこの店で白ワインと鮭のムニエルは頼めなかった。

「アイスコーヒー、ください。」

「 ん。アイスコーヒーね。」

少しすると
アイスコーヒーと、いくつか個包装のチョコレートが
載った小皿が差し出された。

不思議そうな顔をしていると、

「食べていいわよ。」
「いらなかったら置いていっていいから。」

そう言って微笑むとマスターは他のお客さんと話を始めた。

おずおずとアイスコーヒーを飲む。
まだ少し火照った身体に冷たいコーヒーが広がっていくのが
とても心地よかった。

特に何かするでもなく、ぼんやりと聞こえてくるマスターと他の客との会話を聞きながら店内の内装を眺め、アイスコーヒーを飲んでいた。

先ほどのメガネの青年。
はるちゃんと呼ばれているようだ。
20代前半位だろうか。

そしてもう一人。
比較的真ん中寄りに座っているこの女性は
ゆうちゃんと呼ばれている。

話の内容から察するに30前半といったところだろうか。

マスターにふわっと視線を戻す。

視線に気づいたのだろうか。
マスターが寄ってきた。

そしてにこっと笑う。

「 今度はあたしが聞いてもいい?」

別の客が置いて行ったであろうチョコを
つまみながら私に尋ねた。

「この店、すごく入りにくい構造をしているじゃない?」
「お風呂に入った後こういうカフェに入ろうとする人自体少ないし…」
「何かきっかけがあってきたのかしら?」

理由。なんだろうか。
ちょっとした冒険心のような気もするし、
特に理由もない気がする。

強いて言うなら見つけたから入ってみたのだ。

「エントランスでぼーっとしていたら、
 このお店があるのに気づいて…」

「気になったので入ってみました。」
と答える。

「ふんふん。そうなのね。」
マスターがにっこりする。

その後もぽつりぽつりとマスターと話をする。

どうやらこの店「フロリア」はもともと、このスーパー銭湯のオーナーでもあるマスターが、自分用の休憩所だった場所を改造して作ったらしい。

なぜ、フロリアなのか聞くと、

「お風呂と何か組み合わせようと考えたんだけどね。」
「出てきた単語がフロリダだけでね…。」
「でも「ダ」ってなんだか攻撃的じゃない?」
「だから「ダ」を柔らかい印象の「ア」に変えて「フロリア」にしたの。」

と答えた。わかるようなわからないような。
なんだか納得のいかない顔をしている私に、
マスターは

「なんだかほっこりする名前でしょう?」
「意味合いなんてどうでもいいの。」
「どう感じて、その店がどんな輝きがあったか、で
その名前の価値が変わるのよ。」
「それは人の名前や肩書や人生と同じようにね。」

「こんなに突っ込みどころの多い店だけど
大切なところは崩していないつもりよ?」

マスターは目尻に皺を寄せ、得意げににんまりした。

不思議な場所だ。

ただ、それでもなぜか居心地は良くなっていた。

「 ねえ、マスターさん。」

ふと口を離れる。

「 ん?なあに? 」

話しかけるつもりはなかったのに。

あたふたしてると、お皿を拭きながらマスターが
また柔らかく微笑んでいる。

「 えっと。」

マスターがうなずく。

「 普通ってなんでしょうか? 」

「 私は良く普通だって言われます。」
「 何か悪口を言われているわけでもないと思いますが、なんだかもやもやしてしまって。」

マスターは優しい目で促すようにうなずく。

「それがなぜ嫌なのかはわからないですけど、
普通に仕事をして、普通に生活しているのはみんなも
同じじゃないのかなって思って。」

初めて来た客が話す話題じゃないのはわかっていた。
ただ、腹でもやもやとしたものがぐるぐると動き回り、勢いあまって口から出てしまったような、そんな感覚だった。

「そう。普通ね。難しいわよねえ。」

マスターは何かを作りながら、話始めた。

「普通って一つの物事に対して、人の認識の中央値に近い人、一番共感する人が多いものに使われるものなの。本来ならね。」

中央値。全ての真ん中の値。
確かに”普通”はそのイメージだ。

「でも「普通だね」ってそういう普通の人よりも
  つまらない人に使われることが多いわよね。」

「きっと人間の中には、
 ”こうあるべきっていう形式上の価値観”と
 ”実際はこうだ、っていう現実的な価値観”の
 二つがある。」

「”普通”って言葉はどちらにも使われるけれど…」

”あなたの”と言いかけてマスターが尋ねる。

「ねえあなたのお名前は?」

「うえの…上野薫(うえのかおる)です。」

「そう、かおるちゃんね。よろしく。」

ふふ、とマスターが笑う。

「きっとかおるちゃんの言われた普通は、
  良い意味ではないわね。」

「それをかおるちゃん自身もわかっているから
  嫌な気持ちになったんじゃないかしら。」

伏し目がちにうなずく。

「かおるちゃんは自分の人生が無色透明な
つまらない人生だって言われた感じがして
嫌だったのね。」

それが近いかもしれない。

ただ、それでも私は自分の人生は普通じゃないと
言い返せるほどの手札は持っていなかった。

マスターは”でも、無色透明もきれいよね”といい、
メガネの青年に”今はそういうことじゃないでしょ”
とたしなめられている。

「…普通の人生じゃダメなんでしょうか。」

マスターはふふっと笑って
「普通でいたいの?」
ときいた。

わからなかった。
でも、つまらない人間といわれるのは心外だった。

マスターが続ける。

「あなたは、今日、このスーパー銭湯に来たわね。」
「そして、アイスコーヒーを飲んだ。」
「チョコを二つ食べた。」

「まったく同じ行動をした人ってどれくらいいると思う?」

何を言い出したのかわからなかったが、
きっとトレースしたかのように同じ行動をした人は
いないに等しいだろう。

マスターはそっと笑うと私の前に
ホットのルイボスティーを置いた。

「人の人生って果てしなく大きな空間を
いろんな角度や方向に曲がったり、引き返したりして
一本のラインを引きながら進んでいるの。
そういうラインがたくさん重なっているところが”普通”なのよ。」

「何か決まったラインをなぞって生きている人はそうそういないわ。
みんな高さが違ったり、縦横が違ったりしながら、生きている。」

「比較的近くを進むラインに親近感を抱いたり、
遠くのラインを見て不安になったりしてね。」

「かおるちゃんはもしかしたら、
いろんなラインと重なりながら生きることが
多いのかもしれない。」

「でもかおるちゃんはかおるちゃんの人生を生きているわ。」

「あなたにはあなたしか見てこなかったものがある。
あなたは「普通」の人じゃなく、”上野薫さん”よ。」

「気にしなくていいわそんな言葉。」

私は黙って聞いていた。

「それにこの店を見つけたからって
入ってくる時点で変よ。」
「それこそ普通は入らないもの。このお店。」

マスターは呆れた顔で私に言った。

「でも、もしかしたらかおるちゃんは
はたから見たらどういう人なのか
わかりにくいのかもしれないわね。」

「何でもいいの。」

「自分の出会った素敵なものをおすそわけするつもりで興味がありそうな他の人にも話してごらん。」

「きっとあなたにもおすそ分けしてくれる人がいる。」

「長い自己紹介だと思って少しずつみんなに知ってもらえばいいわ。」

何か、自分を覆っていた膜がちょっとずつ溶けていく心地がした。

明確な何かが見えたわけではないが、
 きっかけはつかんだ心地だった。

「マスターさん、ありがとうございます。」
「なんだか少しだけ前を向けそうです。」

マスターは
「お役に立てたならよかったわ。」
「でもあんまり無理しすぎちゃだめよ?」
といって少しだけ心配そうな顔をした。

「また挫けそうになったら来てもいいですか?」
恐る恐る尋ねる。

「もちろんよ。でもこのお店不定休だから、
 やってなかったら、電話頂戴。」

そういって私にショップカードを差し出す。

「まだ時間があるなら少しだけ予行演習していったらどうかしら。
ひとまず、自分のやりたいこととか、好きなことを書いてみるといいわ。」

「案外自分って自分のことを知らないものよ。」

そういってさらに紙とペンをを手渡した。

それから少しの間、マスターや常連と一緒に
自己紹介の練習をして帰路についた。

なんだか久しく心地の良い帰り道だ。

お勘定はアイスコーヒーの代金しかなかった。

そのあとも何杯もご馳走になってしまった私は
何度も財布から紙幣を取り出そうとしたが、
また来てくれるならそれでいいの。と突っ返されてしまった。

家につき、支度をして布団に潜る。

どんな結果になるかはわからないけれど、
ちゃんと報告はしにいこう。

そう心に決めて目を閉じた。


今日も私はフロリアへ向かう。
吉報を持って。




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