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【南大沢土木構造物めぐり】No.71 幻の鉄道・南津電鉄の夢の跡

表紙の写真は、南津鉄道の鑓水駅の近くです。

え、そんな鉄道、聞いたことないですか?

それもそのはず、この鉄道、建設工事は開始されたものの、工事途中で会社が解散し、免許が失効した幻の鉄道。今回はその鉄道のことを少し紹介したいと思います。

幻の鉄道のことは、下記のサイト(H.Kumaさんが運営されている、Rail & Bikesというサイトの中の特集)に詳しく掲載されています。このサイトを見て街歩きをしながら、色々と考察してみました。

■ 南津電鉄とは

南津(なんしん)電鉄とは、大正末期から昭和初期にかけて計画された鉄道で、多摩一の宮(今の聖蹟桜ケ丘駅近く)から、相模川尻(今の城山ダムの近く)までを結ぶ路線として計画され、実際に一部工事が進められましたが、世界恐慌などの影響を受け、工事は中止され、計画は頓挫しました。「南津」とは、「南多摩郡」(今の東京都多摩市・八王子市など)と「津久井郡」(今の神奈川県相模原市緑区など)を結ぶ鉄道という意味で名づけられました。絹の道(八王子から横浜を結ぶ)の交易で栄えた鑓水商人の一族である大塚卯十郎など、由木村鑓水地区の人々を中心に、今の鑓水地区・永林寺で大正13年に会社の設立総会が開かれました。

鑓水の永林寺

工事は、昭和初期に鑓水地区を中心に始まっていたそうで、鑓水地区には一部線路が敷設され、電化柱も建ち始めていたそうですが、計画は中止されました。

■ 南津電鉄のルート(鑓水から相原までを中心に)

南津電鉄の工事は、鑓水から相原に向けた尾根を越える部分を中心に始められたといいます。多摩ニュータウンの造成前には、痕跡がいろいろと残っていたと聞きます。今も一部軌道敷が残っているそうです。そのルートのことを紹介します。

航空写真データベースより、1944年の航空写真

上の航空写真は、1944年に旧日本陸軍が撮影した航空写真です。写真を東西にまっすぐ横切る白い道は、今の由木街道、南北に走る少し細めの白い道は、絹の道になります。由木街道の少し上中央付近から、丘の緑を突っ切り、左下方向に緩やかにカーブして伸びていく線が見えるかと思いますが、これが未成線の軌道跡になると思われます。
未成線は、今の多摩美大の正門の前の道路に沿うような形で、尾根を越えていき、多摩境通りを越え、久保ヶ谷戸トンネル近くの坂を下り、橋本付近からJR相原駅まで境川に沿って走るルートだったようです。

先ほど紹介したH.Kumaさんのサイトに、南津電鉄の建設当時の図面が相模原市立博物館に残っていて、それをGoogle Map上に公開していただいています。なかなかすごい史料を発掘していただいています。

南津電鉄の図面の一部(鑓水付近:H.Kumaさんのサイトより)

一部、鑓水付近の線路平面図の資料をご紹介します。川尻から鑓水までの線路の地図は、下記のサイトを見ると詳細に確認できますので、是非ご参照ください。

■ 南津電鉄の山越えルートの地図と考察

南津電鉄の山越えルートを、今の国土地理院の地形図に落としてみると、だいたいこんなルートになります。国土地理院の地形図は、このルートの断面図を即時に作成してくれます。実に便利な世の中になったものです。

南津電鉄の尾根越えのルート(推測)

鑓水駅付近の標高は、120mくらいで、そこから多摩美大付近の坂を上がり、尾根のてっぺんは標高160mくらいになります。そこから境川は標高130m前後という縦断図になります。問題はその勾配です。鉄道は急勾配が苦手です。特に蒸気機関車しか走らない時代だと、25パーミル(1kmで25m登る勾配)以上の勾配は、補助機関車を付けたりしなければいけない難所です。南津電鉄は電車で計画されていたので、35パーミルくらいの坂なら登れるかもしれません。地図をそういう気持ちで眺めると、鑓水から尾根のてっぺんまで約1kmの距離で高低差35mの坂を登っているので、ずっと35パーミルの勾配が続く難所、ということになります。
勾配をゆるくしたい場合は、尾根のてっぺんまで登らずに、例えば標高150mの地点をショートカットしたくなるのではないでしょうか。それがトンネルや掘割、ということになります。
このルートだと、鉄道を敷くなら、145~150mの標高のところにトンネルを入れたくなるのではないでしょうか。そうすると、多摩美大から多摩境通りまでの間くらいの約500m程度のトンネルもしくは掘割が必要になります。トンネルまでのアプローチは、勾配を一定にしなくてはなりませんので、谷には盛土、尾根は切土が必要になります。場合によっては、鉄橋などの構造物も必要になるでしょう。この山越え、そういう目線で考えると、かなりの難所であり、資金に乏しい南津電鉄には厳しかったのではないでしょうか。

参考までに、相原から同じように尾根を越える、JR横浜線の八王子みなみ野駅までの断面図を書かせてみました。八王子市と町田市の境目のトンネルの区間以外は、約2.5㎞で15mくらいしか標高が下がらないルートです。横浜線が開通したのは、1908年(明治41年)に、前身の横浜鉄道が開通させていますが、そのルートは、七国峠を越えるにもかかわらず、急勾配にならない絶妙なルートであったといえます。一方で、南津電鉄のルートは、かなり険しい路線を選んでおり、そこが明暗を分けたのかもしれないですね。

(参考)相原から八王子みなみ野までの横浜線のルート

■ 南津電鉄のルートを歩く

南津電鉄のルートを歩いて見ましょう。

永林寺の前から探索をスタート。おそらく、軌道はこの参道を横切る踏切のようなものができたのではないでしょうか。

鑓水地区の民家の間を縫って軌道は走ったと思われます。先ほどの考察でも述べた通り、ここから標高を稼ぐ必要があるので、谷の部分には築堤が必要となり、道路や川には橋が架かった可能性もあります。

こんな小水路も、鉄橋で渡る必要があります。

先日紹介した、「通学橋」のすぐそばの民家の裏手。ここに築堤の跡が残っているらしいです。先述したとおり、すでに民家の中腹くらいまで標高を稼いでいます。

由木街道から見た、その築堤と思われる部分。樹木と草地の境目(正面の建物の2階くらいの高さ)でしょうか。

その丘の中腹から、このあたりで大栗川を渡ります。大栗川の渡河部は、建物の2階よりも高いところに鉄橋が横切ったのではないでしょうか。

多摩美大横の道路。結構急勾配です。鉄道の線路は、急勾配を避けるため、S字カーブで急勾配を避けるか、掘割を掘ってトンネルに突入せざるを得ないのではないでしょうか。

尾根のてっぺんの尾根緑道の歩道橋から、多摩美大方向を見ています。この高さまでたどり着いたか、もしくは掘割+トンネルで越えたかはわかりませんが。

尾根を越えて、町田市の多摩境通りとの交差点。このあたりは比較的平坦ですが、ここから橋本方面には、崖のような坂を下らないといけません。

崖のような坂道は、この久保が谷戸の縁を利用して下っていくのではないかと思います。自然の谷戸の斜面を利用すると、盛土、切土を少なくしながら標高を下げることができます。

谷戸の下から見上げたところ。途中からかなり急勾配になります。鉄道が走るなら、途中から盛土や高架橋となり、境川は築堤と高架橋で越えたいところです。

町田街道の、「久保ヶ谷戸」バス停。この付近を築堤と鉄橋で線路が越えていったのでしょうか。

今の道路なら、この久保ヶ谷戸の急な坂道をまっすぐのトンネルで克服しています。南津電鉄に、こんなトンネルをたくさん掘る財力はなかったのかもしれません。

相原駅近くの、境川を渡る部分。南津電鉄は、JRの線路沿いのここを越えて、相原駅にいったん相原駅で横浜線と接続したら、再びスイッチバックしてこの橋を越え、左の川尻方向を目指しました。

相原駅西口の自転車置場の横に、開通すれば南津電鉄の駅ができたはずです。何となく駅ができそうな場所がありそうな広さにも見えます。

■(おまけ)鑓水停車場の予定地を示す石碑

鑓水駅の近く、絹の道資料館から少し坂道を上がったところに、「御大典記念 鑓水停車場」の石碑があります。鑓水駅から、絹の道の上にある、名所の道了堂(今は廃寺)の方向を示すものです。昭和天皇即位に合わせ、鉄道開通の機運を盛り上げたものと思われます。今では南津電鉄をたどる上で貴重な記念物です。

■ 終わりに

幻の鉄道となった南津電鉄。聖蹟桜ケ丘から鑓水を通り、横浜線の相原駅と接続して、城山町の川尻まで至る、この鉄道が開通していたら、この地域の風景は大きく変わり、多摩ニュータウンはできていなかったかもしれません。ただし、鉄道を敷設するにはかなりの難所と思われるルートの工事は始まっていたものの、実現させるには巨額の資金と大掛かりな土木工事が必要となり、本当に実現性の高い計画だったのかは疑問が残る気がします。そういう状況がわかっていたからか、事業はうまくいかなかったのではないかとも推察します。

いずれにしても、昔の鑓水の人たちの鉄道を開通させたいという夢の跡が知れるということは、興味深いと思います。


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