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【多摩ニュータウン近隣街歩き(永山から聖蹟桜ケ丘へ)】②旧・鎌倉街道を歩く

前回の記事では、京王永山駅から歩いて聖蹟桜ケ丘駅を目指して歩き始めました。今回はその続き。昔の鎌倉街道旧道沿いに歩きました。(前回の記事は、こちら)

鎌倉街道の旧道。歩くのが楽しくなるような古くからの道です。

今回は、前回の探索の最後に訪れた、多摩市の熊野神社の前から、鎌倉街道の旧道を聖蹟桜ケ丘駅方向に向けて歩きます。

道端にさりげなく古そうな石灯篭を発見。
馬頭観世音と常夜燈。

少し歩くだけで、古いものが出てくる旧街道です。今昔マップで昔の地図を眺めてみましょう。

大正時代の地図(左)と国土地理院の地図(右)

聖蹟桜ヶ丘がある多摩川沿いは、ほとんど人の住む集落が無い場所でした。関戸の集落は、熊野神社付近から、この鎌倉街道に沿って連なっていたのですね。今よりも近くを流れる乞田川や大栗川が蛇行していたこともポイントです。

昔の関戸集落の中心付近には、やはり「関戸」バス停が。
道沿いの立派な石積み擁壁

昔の関戸集落の中心あたりを歩いています。こんな立派な石積み擁壁があるのも、古くから整備された街道沿いだからなのでしょうか。

石積みの中にある階段の上に祠があります。

階段の上には、祠が建っています。登ってみましょう。

関戸の合戦の有縁無縁者を祀る祠でした。

関戸の合戦で亡くなった方を祀る祠。これが今でも受け継がれているのは、なかなかすごいことだと思います。ちなみに、関戸の合戦とは、鎌倉時代末期の1333年に、新田義貞の挙兵した軍と執権・北条氏の軍が戦った合戦です。前回紹介した、関所がある場所で、北条氏と新田氏の戦いが繰り広げられ、新田氏が勝利し、鎌倉幕府滅亡へ動いていく合戦でした。

関戸の街中には、酒屋も・・

戦場から少し歩くと、今度は酒屋があります。立派な酒屋です。素敵な雰囲気なので立ち寄りたい気持ちがありましたが、時間が無いのでまたの機会に。

昔の鎌倉街道と川崎街道の交差点。

昔の鎌倉街道と川崎街道の交差点に差し掛かりました。

東京都道の境界杭。昔は都道の交差点でした。
近くには、関戸古戦場跡に建つ、石仏があります。

関戸古戦場の跡地に建つ石仏。昔から鎌倉街道を見守り続けてきたのでしょう。

鎌倉街道から少し入ると、乞田川の蛇行跡と思われる低地が。

鎌倉街道から少し入ったところにある、乞田川の蛇行跡と思われる低地があります。駐車場の石垣が昔の川の石積み護岸だったのでしょうか。

金山大権現。徳川家康の棺が静岡から日光に向かう際にこの地を立ち寄った記念だとか。

そんな一角に、金山大権現という小さな祠がありました。徳川家康の棺の葬列が、静岡・駿府から日光に向かう途中に、この鎌倉街道を通ったようです。その際、多摩川の増水で川止めにあって、しばらく休止したことがゆかりで、この祠が建ったとか。今も前回レポートで出てきた熊野神社が管理しているようです。

味わい深い街道筋
大栗川に架かる、大栗橋。

鎌倉街道は、大栗川に架かる大栗橋を渡ります。大栗橋は、橋げたを下に伸ばすことができないほど低いところを走っているようで、この規模の橋では珍しい、下路桁構造(桁より低い場所に路面がある)の橋です。

桁で路面が見えないくらいの高さに設置された橋。
河床に昔の旧橋の橋脚跡?の杭のようなものが列をなしている。

この橋は、おそらく旧鎌倉街道の路面高さに合わせると、河川の桁が通せる高さがかなり制約ができてしまうため、やむなく桁を高く設置するために路面より高く設置し、下路構造としたのではないかと思われます。
何やら、川の中に杭のような列が見えます。この橋ができる前の代の橋の橋脚の名残かもしれません。

すぐ隣の新大栗橋から撮影。

すぐ隣に、今の多摩ニュータウン通り(鎌倉街道)の新大栗橋があります。こちらは道路高さを高くしているため、旧道の大栗橋よりも一段高い位置にあります。少し見下ろすような形の位置関係になります。

【大栗橋 1973年10月 東京都 道示(1972)一等橋 製作:横河橋梁製作所】
新大栗橋。主要道の交差点近くにあるため、いつも車で大混雑です。

新大栗橋は、今の鎌倉街道と川崎街道の交差点の直近に位置するため、いつでもたくさんの車で賑わっています。バス停が橋の上にあります。

今回のレポートはここまで。次回は、聖蹟桜ヶ丘駅周辺をめぐります。
まさかお隣・多摩市の旧鎌倉街道が、ここまで歴史上に色々と登場するくらい、魅力的な場所であることを恥ずかしながら、歩くまでほとんど知りませんでした。地域の魅力を再発見した、街歩きでした。



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