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「私とHIV(2/4) ~HIV感染症との歩みをふりかえって~」

CHARM理事長 松浦基夫


●1985年 堺病院最初の患者

堺病院の最初のHIV陽性患者は1985年にHIV抗体検査で陽性が判明した血友病患者である。1975年頃に堺病院小児科にて血友病Aと診断され、以後通院中であった。その時の小児科部長は、HIV陽性の結果を両親に電話で伝えた。「本人にHIV陽性を伝えても、治療法がないから伝えない」というのが、当時の多くの血友病専門医の考え方だった。1994年に脳症で入院、半年近くの闘病を経て25歳で死亡した。

●1993年 内科でHIV感染症診療が始まる

1993年、日本で仕事をしていた日系ブラジル人の青年が肺炎で入院した。一般抗生剤は無効、肺野にスリガラス影を認めたためニューモシスティス肺炎が疑われた。HIV抗体検査陽性、ST合剤・ペンタミジンによる治療で肺炎は軽快、本人の希望でブラジルへ帰国した。HIV陽性であることをどの範囲のスタッフに知らせるべきか、採血や点滴は医師がしなければならないのか、食器は使い捨てにしなければならないのか、といった混乱の中で堺病院のHIV感染症診療は始まった。

この時に、通訳を依頼したのが「HIVと人権・情報センター(JHC)」である。JHCは「感染経路を問わず全てのAIDS患者・HIV感染者を支援すること」を謳って1988年に大阪で設立されたNGOである。偶然ブラジル人の看護師がセンターに滞在しており、通訳として2~3回来院していただいた。JHCの事務局長をしておられた五島真理為の夫と面識があったという偶然もあり、迷わずJHCに参加し、活動の柱の一つであった「エイズ電話相談」に加わった。JHCのメンバーを通じて血友病のHIV陽性者を支援する「ケアーズ」のみなさんとも懇意になり、血友病のHIV陽性患者を何人か診療することになった。この頃に「京都エイズスピーカー養成講座」に講師として呼んでいただいたのが、榎本てる子・青木理恵子との出会いだったと記憶している。

●1995年 関西HIV臨床カンファレンス

1995年早春、米国NIHの満屋先生(最初の抗HIV薬であるAZTの発見者)の研究室に留学していた同級生の白阪琢磨(エイズ予防財団理事長・元国立病院機構大阪医療センターHIV/AIDS先端医療開発センター長)が、日本でのHIVの臨床をめざして帰国し、「松浦がHIVに取り組んでいるに違いない」と思って連絡をとって来た。東京では既に「東京HIV診療ネットワーク」が設立されており、関西でもHIV感染症の診療に携わる臨床医の交流と情報交換のための組織の必要性を感じていた。

8月、関西医大洛西ニュータウン病院の上田・兵庫医大の日笠・大阪市立総合医療センターの後藤・大阪赤十字病院の有馬・大阪大学第三内科の吉崎に会の設立をよびかけ、「関西HIV臨床カンファレンス」の準備会をもった。奈良医大の古西を加えて8人を幹事として会を設立した。この時の呼びかけ文を紹介する。

「日本におけるHIV感染者数は徐々に増加して累計4000人に近づき、1994年末には非血友病感染者が血友病感染者を上まわったことが報告されました。これまで特に関西では血友病専門医がHIV感染症診療の中心となってきましたが、今後は、血液・免疫・感染症・呼吸器などの専門医を中心にあらゆる分野の臨床医が力を結集して診療にあたっていく必要があるものと考えます。また、他の医療スタッフとの協力の下に、カウンセリングを含むケアの充実も大きな課題です。

感染者に対する偏見が根強く存在する中で、いまだに診療を拒否する病院があることは大きな問題ですが、実際には多くの病院でHIV感染症の診療が行なわれるようになってきました。近畿2府4県において診療経験のある病院は40以上にのぼっていますが、その多くは経験症例数1~5名と極めて少数にとどまっています。HIV感染症の診療にあたる医療機関が増えることはもちろん望ましいのですが、反面、個々の医療機関の中での臨床経験の蓄積ができず、診療レベルの向上に難があることは否めません。また、新しい治療や治験薬に関する情報の入手も困難な実状があります。この点では、都立駒込病院や東大医科研のような中核病院が存在する東京とは対照的といえます。

こういった状況の中で、HIV感染症の診療レベルを向上させ、どの医療機関においても一定以上の医療を提供できる体制を整えることは焦眉の課題であり、そのための組織をつくることは、むしろ必然といえましょう。ここに、HIV感染症の治療に携わる臨床医の交流と情報交換のための組織として、『関西HIV臨床カンファレンス』の設立を提起するものです。」

1995年10月14日、大阪市立総合医療センターで、「HIV感染症における肺病変~カリニ肺炎を中心に~」をテーマに第1回のカンファレンスが行なわれた。35人の臨床医が集まって5つの医療機関から症例が提示され、白熱した議論が行われた。その5日後の10月19日に行われた満屋先生の特別講演会には約70名の参加があり、新聞にも「関西ネットワーク発足 医師らが互いに情報交換」という記事が掲載された。当初は医師のみの組織であったが、その後に薬剤師部会・カウンセラー部会・歯科医師部会・看護師部会が次々と設立され、現在も関西でのHIV診療を牽引する組織となっている。

※注:個人の所属、肩書きは当時のものです。

(次号に続く)

※2023年2月発行「Charming Times No.23」の「CHARM設立20周年「私とHIV」」より抜粋
https://www.charmjapan.com/charmingtimes/charming-times-no-23/