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言葉が分かるようになるということ

言葉は不思議だ。魅力的で実用的で楽しく不可解だ。そしてその程度は、全く理解しない時と、少し理解できるようになった時と、大きな違いが出てくることを最近感じた。理解できない時は自分で意味を掴みにいかねばならないので、パワーが要るし、その割に情報量が少ない。それが、少し理解できるようになってくると、大体のことがおぼろげながらわかる、肩の力を抜いても多少は入ってくるので以前に比べて格段に得られる情報が増えるのだ。

私はSNSでデンマークのいくつかのチャンネルをフォローしているので、1日に何通かのニュースがデンマーク語で流れてくる。それらを全部読もうとすると、以前は相当体力気力を使わねばならなかったので、適当に飛ばし飛ばし読んでいた。むしろ読み飛ばす記事の方がずっと多かったのだが、最近は見出しを見て多少中身を推測できるようになってきた。だから興味ある記事だけをちょっと選んで読むということもできるようになってきた。これは大変楽しく嬉しいことである。

ところで、今日流れてきた記事の中に、インクルージョン教育のことが書かれていた。私の留学していたフォルケホイスコーレのある自治体はデンマーク国内でもトップクラスのインクルージョン教育を掲げているようだが、多様性を認めるということのために他の生徒と一緒に授業を受けなければならなくなった一人の生徒がとうとう学校に行けなくなってしまったというのだ。多様性を認めるためには周りに無理に合わせることをしないことが重要だが、尊重しながら他人と一緒に居られるということも大事だろう。そのバランスをどう取るのか、正解は手探りで探すしかないのだろう。また別の記事では、ホームレスに対して手厚い保護を行うことは財政的な負担になるわけだが、それを不公平だと感じている意見が投稿されているのも見かけた。

言葉が理解できない国の日常を理解するのは難しい。それは日本のニュースを英語で発信しても国内のほんの一部だけしか伝わっていないだろうと私が感じるのと同じだ。それだからこそその国の言葉を理解することは大切だ。これからもデンマークの記事を読みつつ、日本の日常と比較してみることになるだろう。その作業の中に自分が知りたかったことが隠されているのだろうと思う。

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