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どうしたいの?

デンマークのフォルケホイスコーレでは、何事もストレートに口から出てくるような印象、そして「我慢しない」という印象を受けた。このように単純な言葉にしてしまうと日本の習慣と比較できるような錯覚に陥ってしまうが、お互いに異なる文化、歴史背景の上に積み上げられたこれらの違いは単なる比較ということを簡単には許さない。
例えば、週末に近くの街でリサイクルイベントがあるから行かないかと誘われた時、車の台数とか、思ったより行きたい人が他にいるなら譲ったほうがいいかなとか、いろいろと全体的な状況を見ながら決めていこうとするのが私流(もしかすると日本流)だった。ところがそんなことを考えてゴニョゴニョしていると、「あなたはどうしたいの?」とこれはもう100%聞いてくる。ヨーロッパでは自分の意見を強く持っていないと生きていけないよ、とよく言われる所以である。
そしてまた、我慢しないというのは、例えば離婚の数の多さであるとか、生涯の転職の回数から感じるところであるが、これも日本?のように堪忍袋の緒が切れてのっぴきならない離婚、となるとその後の二人の関係はおそらく相当に悪くなるように思われるが、そこまで我慢せずにさっさと離婚してしまうとなると、その後の日々も「親友」として付き合いが続くケースもあるのだという。ちょっと信じられない感じだ。まぁ、そうはいっても孫の誕生パーティーに元夫(妻)の親が来るなど、少々気まずいこともあるとかないとか。さらに転職についてはもっとサバサバしているかも知れない。職場の人間関係にも我慢せずすぐに辞められる社会のシステムになっていることが大きいし、企業は比較的簡単に従業員を解雇できる。辛い職場でも我慢して会社に居残れば年功序列でいずれは給料も上がってくるしランクも上がってくる、ということではない。さっさと辞めてもっと高い職種に就くことで給料も上がるというのだ。
ここにも、周りを見ながら自分の進む先を決めるという日本流と自分のしたいことを明らかにしてその上で周りと調整するという文化の違いが表れている。私は1年半前にデンマークから帰国した時にはこの違いがあまりに大きなものであり、比較したり良いところを取り入れるなどというのは到底無理なのではないかと非常に悩んでいた。だから、そんな大仰なものではなく、ちょっとした気づき、ちょっとした視点の変え方として何か見つかれば御の字だと思っていた。
しかしその後様々な人と出会い、意見を交換したりするうちに、だんだんとそんな大仰な考えも実はあるのではないかと思い始めた。それはつまり、どちらの文化でも社会の中で役割を持って生きるということが幸福の一番底にあるということに気づいたからだ。序列社会は序列によって求められる役割が決まる。平等社会は自分の主張で社会に貢献する役割を自ら担う。大切なのはそれぞれ決まった役割を尊重するということだ。どちらも幸福を紡ぎ出す動力になりうると思う。
あなたはどうしたいの?という問いかけはデンマークの平等社会で幸福になるためのキーワードであった。

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