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自己決定と幸福感

民主主義が幸福と同じことになっているという、一見飛躍した命題が、私がデンマークに滞在して尊厳ある日常生活とは何かを求めた結果得られた結論だった。昨日は、人それぞれ異なるであろう幸福度というものが一様に高いということはそれらを包含するような幸福のモデルがあるのではなかろうかということを書いた。今日は自己決定と幸福感のつながりについて書いてみたい。
よく、人は任されると俄然やる気が出てくる、などという。まぁ責任の重さにもよるが、自分がそれなりに自信の持てる分野で少し背伸びするくらいの目標を与えられて任された時には確かにそんな気持ちになるだろう。もし上位下達が一方通行で「させられている」と感じていると、やる気はなかなか出てこない。もし、幸福感があるとすれば、前者だろう。
また、自己実現を夢見る、などという。自分の好きなこと、得意なことを存分に発揮しながら生活してゆくようなことである。もし自分のやりたい仕事ではないのではないかと思いながら毎日を過ごす、というのでは辛いだろう。しかし自分の環境を受け入れてそこで精一杯力を注ぐこと、周りに感謝していくことが実は心を豊かにしてくれるともいう。どちらももっともだが、幸福感ということではやはり前者を想像してしまう。
そして人事を尽くして天命を待つという。自分でできる限りのことはしたのだから、もう悔いはない。結果は天に任せるということだ。この時は仮に失敗したとしても地団駄踏んで悔しがっても美化されて良い思い出になる。もし誰かが間違いないと言ったからといって手を抜きながらことを運び失敗したらどうだろう。その結果を自分は受け止められないだろう。人のせいにするかもしれない。なにより自分の歴史の汚点になってしまうだろう。幸福感ということなら明らかに前者だ。
自分の体験から言えば、以上のような幸福感というのは、いい意味で好きなようにやっていいことを全力で行い、その結果を味わうということである。この、好きなようにやっていいとは、「自分で決めていい」ということだ。これがないとなかなか幸福感にたどりつかない。デンマークの尊厳ポリシーでは、一番の基礎にこの自己決定が据えられている。そこに幸福感の源泉があることを示しているように思える。私は普段の生活をほとんど自分で決めていると思っている。朝起きてから夜寝るまでだ。仕事という束縛はあってもそれも自分で決めたのだと思える。ただそれは自分が自立した生活をしているから、ということであって、介護や介助が必要になったらそうはいかない。自分の意思に反して決まった時間に食事を取らねばならない。着るもの、食べるものに制限が出てくる。自己決定というのは意外にもろいものかもしれないと気づく。なるほど自分で決めていいということはその自由が自分に与えられているということだ。この自由というのが要介護、要介助でも与えられるのか。与えられなければ幸福感は得られない。ではデンマークはどうなのか。その辺は次に書くことにする。

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