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対話・対話・対話(2)

10月の末は、2回めとなるデモクラシーフェスティバルに参加して、オンラインではあるが、随分と久しぶりに外の人たちと濃密な時間を過ごすことができたように思う。オンラインでもこのように対話が可能であったということに少々驚きを覚えると同時に、オンラインだからこその距離感が対話というコミュニケーションへの敷居を少し下げてくれたこともあるかも知れない。対面では五感すべてを使ってコミュニケーションをとるが、オンラインでは限られた小さな窓を通してのみ相手を感じることができる。極端に言えば、自分の顔と上半身以外は何も映らない、自分のいる部屋・空間さえ相手には知らされない。このひどく限られたコミュニケーションが一つの安心材料になって対話をしやすくしているかも知れない。しかしこの制限は逆に小さな画面に集中しなければならないので、別の意味で負荷がかかる。総じて言えば、ちょっと異次元、力のかけ方の方向が少し異なるコミュニケーションと言えるように思う。

さて、何にしても今回のデモクラシーフェスティバルで得られた最大の収穫は「対話の楽しさ」を味わえたことだ。そしてそれを味わえることが連帯感を生み、自分を発揮するための原動力となることがおぼろげながらわかった。私はあるイベントで、会社員でぺーぺーの頃は会議でベテランに意見を一蹴されるので何も言わなかったが、年月が経ってベテランになったら、他人の意見を一蹴しようと考えながら聞いていることに気づいた、と発言した。実際にそのような行動はしないのだが、それが後輩のためだというロジックを使って自分をかばいながら聞いているように感じたのだ。ところが、イベントの中でそのようなことを考えずにそのまま受け止めて繰り返したり質問したりする訓練を体験すると対話の中に”自分”がいなくなり、対象だけが残るようになってそれについて互いに自分を発揮しながら話せるという非常に楽で楽しい状態が生まれたのだ。

自分がそこに居ない対話

何か変な表現だが、そのことは今までも考えていたことにつながっている。これまでも対話の中で自分が否定されたように感じるということは何度も経験がある。そうなると話は進まなくなり、気まずくなり、結果は考えうる最悪のものに近くなる。それが起きないためには話の対象を自分と相手の間にぽんと置いてそれに対して話をするという感覚を持つようにしてきた。あたかも二人の間にテーブルを置いてその上に議論の対象を乗せる、という感覚だ。しかし自分はそのつもりでも相手が対象をふところに抱えてしまっていては対話は難しい。対話に慣れていないというのはそういうことではないかと思ったのだ。

話は変わるが、以前視覚障害者がパソコンを音声のみで使うためのスキルを勉強する会を主宰したことがある。そこで勉強した人がボランティアとして障害者のサポートができるように、という趣旨だった。そして勉強は進めることができた。しかし実際にサポート、特にご自宅に訪問してサポートする人がなかなか出てこなかった。十分にスキルがあると思っている人にそれとなく訪ねてみると、「もし困りごとを(完全に)解決できなかったらどうしよう」と考えて躊躇していたということを話してくれた。私は気軽に目の代わりをしてあげれば十分ですよと話していたのだが、勉強していた人は自分で全部解決しなければならないというプレッシャーを感じていた。日本的には、ここで私は相手の気持ちを察して気持ちの負荷を減らすような対策を考えるのが「よさげ」だが、私自身それに気づけるようになるまでもう10年かかるのだったら、この活動が視覚障害者の方を助けられるのはいつになるのか?

お互いが完全(に近い状態)でなければならないという意識が対話に不要な緊張感をもたらし、それによって伝わるものも伝わらなくなるというのはなんとももったいない話だとこの期に及んでわかってきた。もちろん私だけ、あなただけという問題ではない。人間として不完全なのは平等だから寛容するが、その自分がどれだけ課題に貢献できるかを対話によって共有しようということだ。だれもがそのようなスキルを身につける必要がある。そのための知恵がどうやらデンマークには詰まっている。その一つが心地よい対話を作る技術のようだ。

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