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デンマークでの散歩

私がデンマークのフォルケホイスコーレに滞在していた10ヶ月間のうち4分の1にあたる2ヶ月半はコロナで国がロックダウンしていた時期に当たり、フォルケホイスコーレにいたことはいたが、授業もなく、国内の学生は皆自宅に帰り、だだっ広い校内の寮に外国人留学生が数名滞在しているという特殊な環境だった。

ただでさえ自分の時間がたくさんあるホイスコーレの生活なのに、ほぼ100パーセント、食と住の心配をせずにしかも密集の機会を避けながら、消毒などの衛生面を徹底し、2ヶ月半を過ごしたというのは、これも一つのホイスコーレのコースだったと言っていいかもしれない、と今は思う。

幸いホイスコーレは自然に恵まれた立地だったので、私はほぼ毎日散歩に出かけた。朝天気予報を調べて雨の確率が低い時間帯が2時間以上あれば、歩きに出た。最初のうちはコースを調べながら探検するような気分で歩いたものだが、7〜8kmのコースを3本ほど見つけた後は、今日はどのコースにしようかと選びながら歩くようになった。どのコースを歩いても馬や牛を飼っている家があったので、彼らに会うのも一つの楽しみだった。

牛はオーガニックの牧場にいて、夏場だけ外に出てきていた。時には一般の観光地に散歩させに来ていることもあり、さすがにその時はこちらがおっかなびっくりだった。馬はいつでも表にいたが、荷車を引くようながっしりした体型のもの、競馬に出るような毛並みの良いスラリとしたもの、見慣れてくるとそれぞれ特徴があって面白かった。

そんな散歩をしていたわけだが、だんだん風景を見慣れてくると飽きてきた。なんと一生に一度(だと思うが)のデンマーク滞在でコロナロックダウンの中、毎日ほぼ全て自分に向き合うという、稀有で貴重な機会を得ているのに、これに飽きるのである。さすがにこれは勿体ない。この機会をぼーっと過ごしてしまってはいけない、日本ではあまり起きなかった感情がこの時は全開になっていた。

それで考えてみたことは、
「なぜ散歩にでるのか」。
「自分にとって散歩の何が楽しみなのか」。
それを改めて自分に問いかけた。散歩を続けたいがためにそのような問いかけを自分にしたのである。そして自分から返ってきた答えは、二つあった。一つは「かならず何かに出会えるから」。もう一つは「写真を撮るのが楽しいから」だった。

ああそうか。自分はこれらを楽しみにして散歩をしていたのだな、と気づいた。つまりただ散歩をしなければ、という義務感や使命感のような感情ではなく、自分が期待している楽しみを求めて散歩に出られるのだということに気づいたわけだ。言語化という言葉を聞くことがあるが、これは一つの言語化の例だったのだろう。

そんなことで、散歩に出る前には「今日も何かに出会える、何かに気づく」そして、「クールな写真を撮る」と心の中でつぶやいてから出発するようになった。面白いことに、そうすると、一気に今回の散歩に対する期待感が高まり、ある種の確信(ワクワク感)を持って出かけられるようになった。

このことは日本に帰国してからは必ずしも成功していない。暇がないとか言い訳はたくさんあるが、やはりホイスコーレでしかできない貴重な体験の一つだったのだろうと、思っている。

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