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自分との対話

今日はとても興味深い経験をした。それは、日本版フォルケホイスコーレの活動に関係する、あるオンラインイベントで感じたものであった。
デンマークから始まったフォルケホイスコーレは試験も成績もない全寮制の学校で、その役割を軌道修正しながら100年以上も続いている伝統的な成人向け教育機関だ。もともとは教育を受けられなかった農民のために民主主義の実践を教えるために必要とされ各地に創立されたようだが、現在は高福祉国家の描く市民一人ひとりの幸福な人生というビジョンを実践するための教育の一部を担っていると感じている。そのキーワードとして自己決定、対話、平等、民主主義などが中心に据えられているようだ。
私は3年前デンマークに渡り、10ヶ月のフォルケホイスコーレの滞在を終えて帰国した。そのときはっきりと理解できたと思っていたことは、あなたの権利と私の権利は同じだという平等感、そしてお互いに理解し得ない部分を持っているプライバシーの尊重、そのうえで、安心して話をすることができる対話の技術と信頼関係の構築技術、これが幸福な日常生活を作り、そのまま民主主義なのだという感覚だった。この感覚はデンマークを離れるときまで非常に鮮明に私の中にあったし、帰国してからはこれをどのように日本的にアレンジできるのだろうかという期待と不安が入り混じっていたことを覚えている。
さて日本に帰って丸2年。あれはどうなったのだろうか。帰国して半年くらいは自分の中で日本vsデンマークの激しい価値観の争いが起きた。それは本当にしんどくて、カウンセリングを受けたほどだった。そして今なおその争いは終わってはおらず、しかし今は少々疲れてしまって「とっくみあって疲れ果て、河原で二人が仰向けになって寝転び、空を見上げている」状態になっている。青春ドラマならここで「おまえ、なかなかやるじゃないか」「そういうお前もな」というセリフが出て二人が理解し合い絆で結ばれるはずだが、どっこい現実はそうはなってこない。それではどうなっているかといえば、一人はこれから二人で協力していくために、距離感を積極的に調整しながら対話を試みている。そしてもう一人はこれから二人で協力してゆくために、相手を観察して自分がどうあるべきかを考え、自分との対話を深めている。二人とも対話しようとしているのだが、片方は相手と、もう一人は自分と対話しようとしている。
今日のオンラインイベントで感じたのは「対話」という言葉である。日本では他人との対話が難しいと感じる人が多そうである。しかし「自分との対話」というとこれは興味もあり、むしろ難しくてもやりたいと思う気がする。これらはあくまで主観であるが、他人との対話は平等観であり、自分の目線が相対的に高ければ相手の目線に下げて水平にするという行為である。一方自分との対話は序列観であり、自分の価値を相対的に又は絶対的に高めて徳のある上位の人間として接するための行為(修行)である。
河原で寝そべっている二人は残念ながらまだ相手を理解していない。そしてどちらも少々居心地の悪さを感じている。ある意味そこが救いである。二人の居心地が良くなるような環境とはなにか。そこが日本版フォルケホイスコーレの肝になるのかも知れない。

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