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大いなる決めごと

世の中デジタル化している。DXだとか、ITだとか、デジタルは世の中の正解だと言わんばかりである。
私はデジタルが大好きだ。だからコンピュータの勉強もしたし、ソフトウェアに従事してきた。デジタルははっきりしている。白黒明快だ。1の反対は0。0の反対は1。どんな曖昧なものでも数字にする。数字になれば曖昧ではなくなる。スパッと割り切れるのが小気味良い。そして永遠である。10という数字は100年経ったら色褪せてセピア色になって8になることはない。いつまで経っても10は10である。と、思っている。
デンマークに行った。そこでフォルケホイスコーレという成人向けの全寮制学校に10ヶ月滞在した。その動機は「高齢者の尊厳ある生活」というものの正解が彼の国にあるのではないかと思い、何とかしてデンマークに滞在したかったからだ。もちろん歴史・文化が異なるから仮に正解があったとしてもそのまま日本に当てはまるとは思っていないが、デンマークの歴史・文化の流れの中にある、いわゆる「正解」があるのではないかと思っていたのである。
正解はデジタルである。だから成績がつけられる。テストの点数がつけられる。ところがフォルケホイスコーレはテストがない。成績もつけない。過程を修了しても何も資格が得られるわけではない。向こうの先生も「フォルケホイスコーレはちょっとユニークな学校なんだよ」といっていた。これはつまり学生に成績をつけない、学生には正解がないということか。それに授業も甚だデジタルとはいかなかった。正解のない問いが多いのである。「民主主義とは何か」と問いかけて、議論させるだけである。当時割り切れないことばかりで私は辟易していた。
デンマークから帰国して2年半、やはりフォルケホイスコーレは「世の中の問いには正解がない」ということを教えていたのだと感じている。それは日本ではいつも正解が求められるような生活だからだ。いったい正解とは何か。何の意味があるのか、そんなことを考え始めてしまう。つまるところ正解とは「境界」である。「割り切り」である。どこかに線を引くから正解がある。デジタルは数字だから、そこが明確だ。2+2=4である。実に気持ち良い。しかし世の中の問いではそうはいかない。友達からもらった2個のリンゴとスーパーで買った2本のバナナである。合わせてもただの「4」にはならない。そんなことを考えていると私がデジタルが大好きだという理由がわかってきたような気がする。そしてもう一つ、正解は誰が決めるのかだ。 他人から求められる正解は、自分以外の誰かが決めているだろう。特に成績をつけるような場面では。他人の引いた線を守ることが良い成績を得ることになる。何かに従って0か1かを判断すればいいだけなので確かに楽である。つまるところこれは「決めごと」である。デジタルが小気味良いのは、決めごとだからだ。デジタル化というのは、大いなる決めごとということだったのだ。

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