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マジョリティでありマイノリティである

先日マジョリティとマイノリティについての興味深い投稿を見て思った。マジョリティはつらい状況に出会ったときにその場からさっと立ち去ることができる人、という部分。様々な状況の中で立ち去れる人と立ち去れない人が出てくる。同じ人であってもあるときはマジョリティ、あるときはマイノリティなのだなと思った。
私は一応健常者なので、日本にいればマジョリティだろう。しかしデンマークに一人で行ったときには、習慣を知らない、言葉がわからない、ついでに神経痛でびっこをひいていた。つまり彼の地にとっては不都合極まりない。マイノリティである。授業でグループワークをしても、デンマーク語で議論している中に入っていけない。しかし彼らはそれを気にする必要はない。必要な議論をしてさっさと立ち去ることができる。私は目を白黒しながら聞き取れた単語のいくつかを調べたり、帰りがけの学生を捕まえて次の日までに何かすることはないかどうかを英語で尋ねたりするわけだ。私はこの不都合から立ち去ることができない。マイノリティとはそういうことである。きつい作業を余儀なくされる立場だ。
マジョリティは確かに気にすることもなく立ち去ることができる立場だが、みんながみんな気にしないということではない。デンマークのフォルケホイスコーレで修学旅行?としてドイツに1週間旅行したときのことだった。いくら英語が喋れるとはいえ、デンマーク人はデンマーク語で話す方が楽に決まっている。ホテルの朝食の時もがやがやとデンマーク語である。ビュッフェ形式でお皿にパンなどを乗せている私にふと一人の学生が近づいてきて昨日はよく眠れましたか?と尋ねた。デンマーク語でだ。その時期は10月だったが、そのころはまだデンマーク語をほとんど聞き取れなかった。普通なら何度も聞き直して挙げ句の果てに英語で問い直してくれるというパターンだ。ところがその時は一発で理解した。なぜか。それは彼女が一言ひと言手振りをつけて話したからだ。言ってみれば手話のようなものだ。彼女はマジョリティであったが、マイノリティの私のちょっとした不都合に気づいて行動したのだった。
この行動には3つの大きな作用があった。一つ目は顔を見てゆっくりと喋ったことで聞き取りにくかった単語の境目が少しわかりやすくなったことだ。デンマーク語は単語の切れ目を認識するのが大変難しい。それを私がわかるように区切ってくれたことは本当に嬉しかった。2番目は手振りを使ったおかげで言葉に集中できたことだ。単語の切れ目が認識できないと、言葉はただの音になって耳を通り抜けるだけになりがちだ。そうなると集中することができない。しかし手振りが加わったことで音と手の動きが同期して、意味になり、言葉に集中することができた。そして最後は一番重要だが、このコミュニケーションが楽しかったということだ。私の小さな不都合に気づいてなんとかしようと思ったのか、単に珍しい高齢の学生にスムーズに声をかけたいと思っただけか、どちらでも良いが結果としてマジョリティもマイノリティも楽しく良いコミュニケーションが取れたということなのだ。私はこの体験を大事にしたい。
あるときはマジョリティであっても、別の場面ではマイノリティになるかも知れない。だから、いつもいろいろなケースを思い遣って、、、と考えることが多いわけだが、それでは疲れてしまう。どちらも。深く理解して最適な解決を求めるのも一つ。しかし、楽しい空間と時間を相手と共有するために今のちょっとした不都合を行動で解決することはこれはデンマーク人の得意とする「ヒュッゲ」に通じるものかも知れない。人を平等に扱うということは自分と同じ目線に持ってくることだと教えてくれた一つの例と思える出来事だった。

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