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ノータイトル

自分の考え方は多分ずれているのだろうと、以前書いたことがある。ジェネレーションギャップを意識してのことだ。自分はバブル絶頂の頃に青年期を過ごし、ものの見方、考え方がその頃のものを引きずって現代の若者たちの考え方には相当なずれがあるのだろうという思い込みからだった。しかし本当にそうだろうか。私は誰に対してずれているのだろうか。そんなふうに対象を現代の若者というひとくくりにした勝手なイメージに対する思い込みではないのか。若者だろうが高齢者だろうがそれぞれ多様なはずだ。ひとくくりにすること自体が言ってみれば失礼だ。自分も「だから年寄りは。。」とひとくくりにされることを想うべきなのだ。自分だけは違うなどと考えるなら、他の全ての人もそう考えている。誰もが何十年かの人生の中にそれぞれの経験を積み上げているのだ。
そのような見方が少しできるようになったのも、デンマークに行って自分と向き合う時間をたくさん持てたことや老若関係なくフラットに話をする経験ができたことに負うところが大きい。つまり私はデンマークで一つの大きな経験を積むことができたということだ。そう考えると若者と高齢者の間に疑いもなく存在する差異というのが、この経験の量に他ならないとわかる。人生の時間の差は経験の量の差と同じだからだ。生きている限り経験は積まれてゆく。
なるほど、積み上がった経験がどんな色なのか、とか、どんなふうに輝いているのか、とかそんな風に見てしまいそうになるが、そこはあまり本質ではない。他と比べて仕上がりを気にするのではなく、自分の思うように経験を積んでゆくというその結果として積まれたものが自分の満足行く人生なのではなかろうか。
生きている限り経験は積まれてゆく。その経験は自分である程度決めることができる。だれでもそうだ。有限の人生にどんな経験を積むか、それはちょっとワクワクする。明日それが積まれるのだ。その前にちょっと休んで戦略を練るとしよう。

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