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お世話になります。

今のご時世、誰でもメールやチャットで文字を打ち込むことがあるのではなかろうか。特に仕事関係で文字を入力する時には、長々しい前文を書くことはしないが、ほとんどの場合、一言おまじないのように書いている言葉があると思う。

いつも大変お世話になっております。

私も会社勤めを始めた頃、電話の応対でまず最初にこれを覚えた。メールが使われ出した時にもこれを必ず入れるようにしていた。この言葉は日本の文化なのだなとつくづく感じる。自分だけで生きているのではない、常に他人、他社、他のつくものに陰日なたで支えられ、支えながら生きているのだ、生きると言うことはお世話になることなのだと無意識のうちに口から出るようになっている。お互いに助け合って生きているのだと納得したものだった。ところが、である。私が心配している「お世話になる身になる、お世話になる生活」ということになると、ちょっとニュアンスが変わるような気がし始めている。

いつもお世話になっているというときは、実はお互いに世話をするほどの近距離にいないのではないかということだ。世話とはあれこれと面倒を見ること、という意味だが、会社同士でそんなことはないし、個人的に毎日様子を見て世話を焼く間柄で「いつもお世話になっております」とかしこまっていうこともない。要するにこの言葉はビジネス的な依存関係や、比較的距離のある個人の間の関係で、あなたのことを決して忘れてはいませんよ、きっとあなたは私のためになっていますよ、だからお礼を言います、ということなのだろう。この奥深くまで察して感謝するという日本の伝統的な想像力をベースにした価値観は本音と建前を使い分けて距離感を調整する知恵だと思う。

ところで、これが介護や介助の必要な人たちとの間、つまり身の回りの世話が必要なケースではどうだろう。本当に「世話」をしている距離の人たちである。お互いにこのような挨拶をするだろうか。世話を受ける人はいつもお世話になっていますと言うかもしれないが、お世話を提供している人はあまりそんなことを言う気持ちにならないだろう。なぜなら、お世話こそすれ、お世話になっているという感覚がほとんどないだろうからだ。本当は、お互いが何かの縁でお互いのためになっているから感謝する言葉は実際には奥深くまで察することは少ないしそんな暇はないというのが現実だ。しかし考えてみるともし、それでもそこまで相手を考えることができたなら、それはお互いが尊重し合うという信頼関係に欠かせない姿勢を作れるはずだ。

同じようなことはデンマークでの信頼関係を考えていて感じた。あちらではお世話になりますとは言わないが、お互いが尊重し合うことで生まれる平等観ががやはり関係性のベースになっていた。そしてお互いに人生に責任を負うという重い大変な作業を「よくやっている」と認め合うことで成り立っているようだったのが特徴的だ。

社会の仕組みや伝統・文化によって方法は異なっても、人はお互いに信頼して良い関係性を維持する知恵をつないできているのかなと思うわけで、この「お世話になります」もその知恵が生かされていることを今一度噛みしめたいと思った。

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