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はなまる

小学校の低学年の頃は先生が花マルをたくさんくれたような気がする。2重3重の渦巻きの外側をひらひらと花びらのように飾る、あの丸だ。花マルはとにかく豪勢だ。丸の中に丸がたくさん入っている。これでもかというくらいに丸があるから、自分はそんなに良かったのかと半信半疑のまま喜んだような記憶がある。それは自分が平凡以下で友達のようには何もできないとがっかりしそうな毎日の中で大分と救いになっていたようだ。今思えば、当時は本当に人と比較し、評価するということにまわりも自分も時間をかけていたように思う。何かに秀でれば、何かに劣る、やれ誰それは賞をもらったとか有名になったとか。花マルはそういった泥沼から金魚すくいのように私をすくい上げてくれていたのかもしれない。

デンマークでは、小学校の授業を何度か参観した。2年生のクラスだったが、本を読んでくれたりクリスマスの飾りを一緒に作ったり、昼休みに隠れんぼしたりした。授業風景は日本に比べて自由というか、臨機応変というか、それでいて統率されていた。算数などの課題はタブレットでやることも多かったが、あまり花マルを見たような記憶がない。あるのかも知れないが、記憶がない。もしかすると、昔の私のように比較して落ち込むような子供を救うという必要がないのだろうか。競争社会ではないのだろうか。しかし競争はある。競争させて優勝チームは皆の前で褒めたりするのだから、比較していないわけではない。そこでなんとなく思うのは優秀な「人」を作らないということだ。有名なヤンテの掟には「自分が特別な人だと思ってはいけない」ということが書いてある。ひとりがすぐれているのではなく、チームで競い勝ったり負けたりをくりかえす。その中に花マル的気分が均等に分け与えられているのではなかろうか。

人を育てるということについて、個人主義の先進国デンマークは民主的な競争ということを教育に入れているのではないか。この花マル的気分はチームワークこそが与えてくれると知れば、それがおそらく優秀な大人になれるという教育の知恵なのかも知れない。

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