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他力本願は「ラクする」ことなのか

日本は仏教の信仰が多い。仏教にも様々な宗派があるが、メジャーなのは大乗仏教、浄土真宗らしい。この宗派の教えはシンプルである。なーんも考えなくていいから、ナンマンダブと唱えれば阿弥陀如来さまが苦しみをぜ~んぶ引き受けてくれて、あなたは救われる、というものだ。自分の苦しみを他人(?)が引き受けてくれて必ず救われるという、これを他力本願というが、ちょっとうますぎる話に聞こえるかもしれない。なにしろとても「ラクできる」感じがする。
さて、私が行ってきた北欧デンマークはキリスト教の国である。国教はプロテスタント派であり、質素な生活で皆で協力して厳しい自然を乗り切って行こうという感じである。個人主義だが自分をきびしく律することも求められる。どう考えても「ラク」ではなさそうである。仏教でいう「自力」に近いのかもしれない。ところで、
幸福な人生を追求するなら、あくまで幸福とは自分個人の問題であるはずだから、自分を律して(コントロールして)ゆくのが正攻法のように思える。デンマーク(フォルケホイスコーレ)でも自分を観察してコントロールすることの重要性を説いていた。他人に任せてラクしてうまくいくはずなんかないのだ。とまあ、そうするかどうかは別として、そんな風に考えるのが分かりやすそうだ。自分も若い頃はやはりそう考えていたし、そのように生きてやろうなどとトンガッていたかも知れない。もちろんそれは体力や気力が十分にあり、自分をコントロールして律する生き方は可能だと思っていたからだろう。
ところが、歳と経験を重ねてくると自分に影響を与えている要因が自分の制御できない広さで広がっていて自分にはどうしようもないことがほとんどであることに気がついてしまう。そして、自分がそれに向き合おうと目を背けようとそんなことはお構いなしに「世の中うまく行かない」という現実を感じながら生きることになる。「どうしようもないこと」が自分を苦しめることになっているのだと気づいてしまう。
では、自分を律する努力は無駄だったかというと決してそんなことはない。実際、自分を律することなく救われることはないと、浄土真宗もプロテスタント派も言っている。キリスト教のことはさておいて、他力本願でなぜ自分を律することが必要なのか。それは「救われる」という言葉の意味を取り違えがちなところにある。「苦しみからは救ってあげる」けれども「幸福にしてあげる」わけではないということだ。「幸福に向かって突き進めるように自分ではどうしようもない苦しみを取り除く」ということだ。自分ではどうにもならないことで苦しんでいるならば、それにこだわっていてはらちが明かない。だから「そんなこと考えるのはやめて、自分が幸福になるためにやるべきことをやりなよ」と言っているのだ。「だって!!」と言いたくなる。そりゃそうだ。やめられるなら、とっくにやめてる。そこで、「じゃあ、私(阿弥陀如来)がどうにもならないことは全部引き受けてあげるよ、そこんとこは任せて。『ナンマンダブ』と唱えれば、全部引き受けたる。」とくる。半信半疑ながらもそこで任せることにしてみれば、あとは自分を律してやるべきことをやるだけである。それが他力本願の「救い」である。
だから、他力本願は唱えるだけで「ヨシ」ではないのである。そこから先、自分のすべきことに全力で突き進まなければならないのだ。まったくもって「ラク」はできない。。。

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