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自分を観察する自分

中への投影、外への投影

自分の内面と外面との境目はどこか。皮膚か?それは生物学的にいえば皮膚の内側は体内だろうが、体内あると感じられる胃や腸は、体の端と繋がっていて、ある意味これは外側とつながっているわけである。それだけでもややこしいのに自分が意識する内面と外面となると、なんだかもっともやっとしている。
西洋でも東洋でも意識というのは何層かのレベルに分かれているようだ。自分でわかっているような意識の働きは一番上のレベル。したに降りてゆくにつれて自分ではわからない意識の働きがあるようだ。最初から最後まで自分で考えたように思っていても、実は大部分が無意識に、自動的に考えが進められていたのかもしれない。そんなことを考えていると、自分の内面と外面を区別する必要があるのか、とか、精神は世界で一つにつながっているのかなあ、などと漠然と考えが漂ったりする。
デンマークのフォルケホイスコーレでは「自分をよく観察しなさい」とよく言われた。ときどき思い出されるこの言葉は、当初は自分を観察できる(かなり完璧な)自分を作りなさい、というようにきこえていた。しかし実際に自分の内面を観察しようとすると、自分の歴史や感情、何を大切にしてきたか、そういったことをわざわざリストアップしてかからないと、すぐに感情のうねりに飲み込まれて観察どころではなくなってしまう。そういう意味で、自分を観察するということはかなり難しいことだということをなんども思い知ってきた。また内側ばかりを見ようとすると、感情のうねりに負けそうになるので、ちょっと外を見ようとすることもあるだろう。自分を取り巻く環境を観察してそこに映る自分を観察しようというのである。だが、自分を観察する状況は暖かい部屋の窓から外の雪景色を眺める、というようなことばかりではない。暴風雨で今にもなぎ倒されそうになっているかもしれない。猛烈な熱波に喉がカラカラになっているかもしれない。またたくさんの聴衆に囲まれて非難の矛先になっているかもしれない。当然こういったところでも感情が湧き上がるだろう。しょうがないのだ。人間の行動は感情がなければ生まれないと思うからだ。
だから、自分を観察するというのは自分の感情を観察すると言い換えられるかもしれない。自分は今、不安なのか、嬉しいのか、怒っているのか、穏やかなのか。それを自分なりに言葉にしてみることを私はデンマークで学んだようだ。自分の感情を言葉にする練習、これが実は自分をよく観察する第一歩なのだろう。


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