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平等感とレベル感のせめぎあい

どうも紛らわしいし、考えにくい。日本で他人に思いやりを持って和を尊び仲良く暮らすことと、デンマークで自分の幸福を考え、他人も同じ自由を持っているとして尊重し、良いコミュニティを作って暮らすこと。

デンマークに滞在してみて、さまざまな国籍の人とも会い、しみじみと感じたのは、どの国の人でも同じような状況では同じように感じるようだということ。感じは同じでも解釈は異なる。それはその人の教育や経験に基づく価値観の違いからくるものだ。だから良い社会へのアプローチは異なる。しかし同じように感じるなら、結果として日本でもデンマークでも幸福な社会の具体的な瞬間瞬間は似たようなものなのではないか。

デンマークでは個人主義なので自分で考え自分で行動し責任を自分で引き受ける。それを周りの人も同じようにやっているという意識が平等意識を生んでいると思う。それがお互いの尊重に繋がっている。一方で日本は相手と対等な関係が少ない。信頼関係はなんらかの上下関係とそこに生まれる礼儀作法で作られることが多い。幼なじみのように人格的な信頼関係というのはあるが、大人になってからは基本的に上下のレベルをつける。その方がうまくいくのだ。しかし結果的に同じようなコミュニティの具体的風景ということになると、この平等感とレベル感が自分の中でせめぎ合ってしまい、収拾がつかない。

それが何に因るものか。もしかすると言葉なのかもしれない。個人主義では多様性を尊重し、プライバシーに踏み込まないので個人を人格ごと理解することは難しい。したがって、言葉で説明することが基本になり、それを判断せずに受け止めるというテクニックで信頼関係を作る。一方日本の集団主義では言葉での説明をせずに分相応の振る舞いによって自分の人格を表して信頼関係を作るように思う。言葉がない、あっても少ないのである。代わりに行動で示すということだ。

個人主義のように言葉を駆使して説明するのは非常に大変で労力がかかる、一方黙って分相応の振る舞いをすることは大変気を使い、これも労力がかかる。だから、どちらが楽だとか、優れているということはぎろんできない。幸福な社会へのアプローチのそれぞれ一つなのだ。この二つが非常に接近する場面として社会的弱者へのケアサービスがあるように思う。どちらか一方でなくいわゆる臨機応変にこの二つが相補的に発揮されるのが理想的だ。

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