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社会的な役割

テレビドラマや映画を見ていると、若い人は気力に満ち、無鉄砲なまでに挑戦し失敗し経験を積みながら成長してゆく。まあ私たちはそれを見たがっているのだからそういうことになる。一方で年寄りはそれなりに十分な経験を積みその経験を解きほぐしながら人生を明らかにしてゆくという役どころが期待されている。魔法のような正解を出すのは仙人のような老人で、これは滅多にいないしある意味シンプルなキャラクターである。それより多くは苦渋の経験や取り留めのない雑多な経験をただ積み上げてきて、何かの機会にそれらを見つめ直して「意味を見つける」ことになる。これはおそらく誰にとっても「そうあってほしい・そうに違いない」という普遍的なものだろうなと思う。
若者が「自分はこれでいいのか」と問い、老人が「自分はこれで良かったのか」と問う。それを動機にして行動する。これが一つの社会的な役割のベースになっているのではないかと考えるようになった。もう少し言えば、社会的責任ではないかと思うようになった。これもデンマークに留学して気づいたことと、会社勤めを早くに辞めて地域社会を経験してきたことがある。会社勤めをしている時には全くこのような考えをしたことはなかった。というより、そのような暇はなかった。ひたすら仕事を前に進める、そのことが価値だった。ちょうど、2次元の平面に住んでいる住民は3次元のことを思いつくことさえできないというところに近かったと思う。今思えば本当に不思議なことだと感じる。
もちろん、会社という社会の中でも経験や役職に基づく役割はある。新人は無鉄砲で失敗もする。ベテランはそれをフォローしたり指導したり諭したりする。しかしあくまでそれらは会社という社会のための役割であって、人生を生きているもっと広い社会に貢献するとは必ずしも言えなかったようだ。私は会社から地域へ、日本からデンマークへ、かなり強引に飛び出したことで見えなかったもう一つの次元を目の当たりにすることができたのかもしれない。社会的な役割とは何か、それは平和な暮らしを維持し個人が意味ある人生を送るために自分から行動することを互いに尊重しあう社会であるために、その構成員である個人が社会に貢献しなければならないという責任である。それは「自分が生かされている」ということに通じる。そして自分の自由が他人も同じように自由であるということを肝に銘じることでもある。自分が楽をすれば、他人も楽をする。その結果どうなるかを考える。自分だけが苦労していると思えば、声を上げる「自由」があると考える。その結果社会への認知が生まれる。
私には声を上げるような勇気はなかなかない。しかし自分に貢献できることを考えることはできる。時間とともにどんどん経験は積みあがってしまうので、それらが社会的な役割になってゆくように気をつけていかねばならない。

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