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心が疲れたときは、やっぱり休んだほうがいい

何でも歳のせいにするのはあまり気が進まないものである。自分に、または周囲に言い訳をしている気持ちになるからだ。それを聞かされるほうだってかつて自分がそう思ったように「そう言われても、まあ、しょうがないよね」という、そんなところではないだろうか。個人的な感覚であるし、他人が介入することはできないと思ってしまうのである。
そうはいってもかつて苦もなくできていたことがだんだんと体力と気力を要するようになってきたというこの忍び寄ってくる感覚はいかんともしがたい。3年前にデンマークに行こうと思ったのもこの感覚を恐れていたからかもしれない。当時はもっと漠然と「尊厳ある日常生活をつづけるために、まず『尊厳ある』とは何か?」を知りたいと思っていた。そしてそれを多少とも感じ得たことは大きな経験だった。それが今はもう少し具体化して「自分が感じ始めた一種の喪失感とそれを引き起こす日常の小さな出来事で心が疲弊することに対してのストラテジー」がテーマになっている。
ストラテジーとして考えるというのはデンマーク留学で腑に落ちたもので、自分の戦略を立てると考えると、事柄がすこし客体化して取り扱えるようになるのだ。これはこれで興味深いがなにしろそれを追求する気力が減少しているので始末が悪い。言ってみれば電圧は高いままだが、電流が流せなくなっている電池のようなものだ。流せる電流を考慮しないとすぐに電圧も落ちてしまう。
心が疲弊するというのは、この電池に例えれば、プラスとマイナスをショートするようなものである。「手応え」という負荷があれば電圧を保ったまま相応の電流を流し続けることができるが、手応えがない、つまり自分の行動が適切に自分に返ってこないと、手応えを求めて一気に電流が流れ出てしまい電圧が落ちてしまうのだ。たとえば、少し滑舌や声量が落ちて自分の発言を聞き返されたり、ど忘れが増えて会話のタイミングを逃したりする、またはつまづかないはずの置物に足を取られそうになったりする、このような僅かなことで一瞬ショートしてしまうのである。このときの電圧の降下がいわば、心の疲弊である。
この電池はしかし充電池でもある。食事・休憩・リフレッシュなどの手段によって復活するのだ。だからまず、ショートしている状態を止め、ちょっと時間はかかるが充電すればもとに戻る。つまり電圧が復帰する。大事なことはショートしている状態を「止める」ことだ。ショートしたままでは電流が流れ出続けるので充電できない。これはつまりその状況から距離を取ることにほかならない。感情的にはそこにとどまりたくなるのだが、ストラテジーとしてはそこから離れたほうが断然効果的なのだ。不機嫌になってぷいと部屋に引きこもるのも手だが、それ自体が結構消耗する。もっと省エネのストラテジーがこれからは必要だ。それはつまり最低限のショート要因を切り離すという意識だ。会話で感じたら少し会話を止める。つまづきそうになったらものを移動したり応急の対策をその場でする。そして意識的に充電するために少し離れた、一人になれるところに移動する。こまごまとそのようなことをしていかねばならない、それは歳のせいなのだ(!)。

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