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言語と報酬

私は58歳の時にデンマークに行き、そこで初めてデンマーク語というマイナーな言語に出会った。英語もデンマーク語も日本語も「言語」である。この、言語とはなにか?という問いはとても興味深く魅力的なものだが、今日はちょっと異なった意味合いにとらえてみたい。すなわち、あるルールに則ってグループの人たちが共通に持っている経験や知識を表現する記号、音、の組み合わせといった具合である。なぜこのように定義してみたのかというと、コンピュータ言語というのがその近くに感じられる定義だからである。私は学生の頃からコンピュータの仕組みに興味を持ち、さまざまなコンピュータ言語を経験してきた。古いものはベーシックに始まり、フォートラン77とか、アルゴル、パスカル、そしてC言語、現代のスクリプト言語も経験してきた。これらが実は、共通の仕組みを使って結果を出すためにルールに則って書かれるという意味で、先の日常の言語と似ていると思うのだ。言いたいのは、それを覚えるというプロセスにあたっての動機というか原動力についてである。コンピュータ言語はいろいろ種類があるが、どれも必要とされる結果を出力するためにルールや単語が決まっている。習うより慣れろという言葉のように、仕事で毎日そのような言語を使ってプログラムを書いていると、当然のように覚えてきて自分が喋るようにプログラムを自在に調整しながら書くことができるようになってくる。(もちろん、きちんと設計図を作るなどの作業をするわけだが。)しかし英語やデンマーク語は確かに慣れてはくるが、自在に使うというところまではなかなかいかない。なぜだろうとちょっと考えてみると、それは報酬の違いからくるのではないかと思いつく。報酬とは自分がその言語で書いた(話した)ことによるシステム(それを理解するグループ)の反応である。
コンピュータのプログラムなら、走らせてみれば、思ったような動作や表示がされるかどうかを確かめることができる。当然である。そのためのコンピュータ言語なのだから。そしてちょっとでも間違えばびくとも動かないか、暴走してしまう。極端である。しかしその分結果が非常にわかりやすく、思い通りに動いた時にはこれは達成感が大きい。これが報酬という感覚となりコンピュータ言語に慣れるための一つの動機づけになっているようだ。
一方の日常言語の方は、システムーつまり私たちの社会の同じ言語を理解する人々の反応という形で報酬があるのだと思う。つまり反応のない環境でいくら練習を積んでも報酬のない仕事は退屈なのといっしょでなかなか身につかない。そういうことなのではなかろうか。だから何にせよ言語を習得したいと思ったら自分のレベルに合わせて心地よい報酬(反応)を得られるような環境を整えるのが早道なのではないかと思う。
私がデンマーク語を、日本に帰国して1年半以上経つのにまだ作文したり、話したりして向上したいと思っているのは私のレベルにあった反応をしてくれるデンマークの友人ができたからである。今はまだ日常会話程度のことだが、それこそデンマークで学んだ福祉や尊厳ある生活についてのことをテーマにできる日が来るだろうと思うと楽しみでならない。

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