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奇妙なことを書かねばならない。

先週は、スウェーデンに滞在した若者が現地での調査や経験を民主主義という軸にまとめた本を購入し、かなりの共感を持って読み進めていたが、その中に、政治教育ということについて触れていたところがあった。スウェーデンも日本と同様、学校は政治的には中立でなければならないそうだ。しかし各政党を呼んで政策の説明を受け議論して実際の政党に対しての模擬選挙を行うことまでをしているとあって、へえーと思ってしまった。そういえば北欧のデモクラシーフェスティバルでもあらゆる考えを拒否しないということで、過激な意見を持つ団体も参加してデモなどの(平和的)行動もできるという、しかも万一のことを考えて軍が警備をするケースもあるという。そこまでして平等を実現しないとデモクラシーではない、ということらしい。先の学校に政党を呼ぶというのも、選り好みせずに全ての政党を呼ぶのだそうだ。学校が政治的に中立といってもこのように政治を教えるやり方があるのかなと感じたところだ。

ところで、なぜか私は政治的には中立でありたいという思いから、政治的なことにはなるべく触れない行動を取ってきたし今もそうだ。政治的な色をつけられてしまうことを嫌っているのかもしれない。この考え方はおそらく相当古いもので「あいつは○○だ」という色をつける文化?に実は染まっている証拠だと気づいた。染まっているからこそ色をつけられたくないと自分の行動を制限しているからだ。デンマークではひとりひとりが政治を変える力を持っていると信じられるという。全市民ではないにしても自分の幸福を実現するように政治を考えることは普通にあるようだ。それを学んだはずなのに、自分は政治にかかわらずに幸福な人生を送ることができるのだろうか。帰国して一年以上経ってやはり以前と同じような行動をしている自分に気づくのだ。

政治は社会の仕組みを動かす根本だ。コロナ対応で政府への批判をSNSで発信されるのを見るが、これも一つの政治への関わりかもしれないと思う。世論の批判を受けて政治家がより良い方向へ舵を切る、そのきっかけを与えているかのようだ。しかしその次に何が起こっても私は再び批判するだけの関わりに終始しそうな気がする。なぜなら自分では何も決めていないからだ。自分の責任で行動するための方針がないからだ。自分で決めて行動し、結果を引き受ける機会を得られることが幸福なのだとデンマークの尊厳ポリシーは説いている。オリンピックを見ても、アスリートにそのようなストーリーを見出す時、たとえ負けたとしても彼らが幸福そうに見える。

政治に参加することで色がつくという考え方に染まっているということから、幸福になることから遠ざかっているというなんとも奇妙なことを書くことになってしまった。もしかすると私以外にも同じような考え方の人やコミュニティがあり、私が何かすることで色をつけられてしまうのかもしれない。何が私の人生に意味があることなのかもう一度考えてみなければならない。

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