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耳鳴りを聞く−−日々の尊厳

私は時々疑問に感じるのだが、この世に耳鳴りのしない人はいないのではないか。静かな所で独り黙って座っていれば、絶えず耳はキーンと鳴っている。高音で不快な音である。これはかなりうるさいように感じるが、他の音、例えば冷蔵庫の唸る音、エアコンの室外機の音、水道管に水の流れる音などはちゃんと聞こえる。耳鳴りがうるさくて聞こえないということはない。そこに耳鳴りの「音らしからぬ」特徴がある。どうも、耳鳴りというのはじぶんの頭で作り出している「疑似音」であって、耳が音を聞こうとする性質の副作用のようなものらしい。
耳鳴りが嫌だと言って聞こえないようにするのは意外と易しいかもしれない。大きめの音を鳴らせば耳はそっちを聞こうとするので耳鳴りが聞こえなくなる、いや、気にならなくなる。ヘッドホンをつけて音楽を鳴らしておくというようなことである。
しかし、嫌なものから目を(耳を)背けるというのは、実は尊厳的(!?)にはあまりよろしくないと思う。病的な痛みなどを伴うなら話は別だが、嫌だということだけならそれをよく観察するということは意味のあることだ。耳鳴りに意味があるかどうかではなくて,耳鳴りを聞くことに意味があるということだ。
静かな場所で、リラックスしてそっと耳鳴りに耳を傾けてみる。よく聞こえる。音の高さはどのくらいだろう。音は波打つような強弱があるだろうか。音は一つだけだろうか。ああ、時々右の方から虫の声のようなのが聞こえたりするなあ。しかし冷蔵庫の稼働音やどこかの配管を水が伝い流れるような実際の音も結構聞こえる。耳鳴りが邪魔になるようなことはない。実際に聞くには困らないということか。
私の場合は耳鳴りをこのように受け止めたわけだが、恐らく人によって受け止めは千差万別だろう。意味があると思うのは、耳鳴りを聞くことができたという、受け止めることができたという、そのことだと思うのである。

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