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子どもたち、ちょっとゲームもしてくれないか。

授業を“教科書の内容の解説だけ”で進めると、とんでもなくつまらないものになる。
そしてつまらないものは、記憶にも残りにくい。

なので出来るだけ、生徒の知っている知識に絡めた話だとか、興味のありそうな話題を含めて話をするようにはしている。けれど最近、これが難しいと感じることがある。

この間、ポケモンに絡めた話をしようとしたときのこと。

leaf(葉っぱ)の複数形がleaves、となる変化のルールについて紹介しようとしたら、そもそもleafを知らない、と言いだした。リーフ、聞いたことない?

ポケモンで特定の進化させるときに、「リーフの石」というアイテムがある。
可愛い人気ポケモンのイーブイは、これを使ってリーフィアというポケモンに進化する。

リーフの石って、石にリーフが描かれてるんだけど、思い出せない?
じゃあ、リーフィアは?見たことない?
ほら、耳と尻尾が緑で、ちょっとうねってて、何かに見えそうじゃない?
あ、タイプから予想もできそうかも。
……ほら、なんか出てこないかな。

これがなかなか出てこない。

ちなみに兄弟、という単語がわからないとき「スーパーマリオ……?」と聞くと、ギリギリ「ブラザーズ」と答えてくれる。マリオは偉大だ。

理科で、単子葉類と双子葉類の区別をするとき、「単子葉類は、ピクミンのイメージ!」という紹介も、いずれ使えなくなるのかも知れない。ピクミン、おもしろいよ。

特に英単語は割とゲーム中に出てくるので、お世話になっている。
ゲームと言えば「セーブ」をよくするのでsaveを紹介するときはいつもこれ。

ゲームにおけるsaveは、ゲームがここまで進行した、という現状を「とっておく」というイメージがある。そこから、お金や時間をとっておけば「節約する」と変化したりする。……どうよ?結構、自信のある説明なんだけどな!

ただこういう説明に限って「ふうん……?」という反応だったりする。
自信のあるやつほど、あまり響かない。

①娯楽と教養と、ゲームとは

学力を上げるために、よくゲームは邪魔者扱いされがちだ。

けれど、ゲームなどの娯楽は、ものによっては“教養”の前準備のような可能性を持っていると、私は思っている。
魔法の出てくるゲームの「呪文」が、英単語をもじっているやつとか。私は結構そこから知っている単語を広げた記憶がある。

興味や好きは、勉強の根幹だ。
知っているもの、好きなものと繋がったときの「あ!」ほど、勉強において強いものはない。ただ生徒たちの好きが、そういった知識を広げる源泉が、最近なかなか見つからないのだ。
(これは私が単に、若者の流行を知らないだけかも知れないけれど。)

ようやくゲーム好きな生徒に出会っても、あんまり知識の広げようがないゲームだったりもする。直感的に遊べるような、知識不要の簡単なゲームなんかがそう。

こんなところに紐付けをしたくはないが、重厚なゲームを嫌がる子は、勉強において粘るのが苦手だったりもする。この問題をどうやって解くのか、何がヒントになるのか。こういったことをテキストやノートから探して自分で解く、ということに、楽しさというか達成感というものを、感じようとしない。

わかんないから先生に聞く。これで全部解決しようとするのだ。
……コスパがいいというのだろうか。はたしてそれに、なんの意味があるのか。私が先生として自信をなくしそうな瞬間である。

②トランプで遊んだことがない子ども

以前、確率の単元にてトランプを使った問題を解説したときにも、似た衝撃はあった。
トランプの「絵札」とは何か、知らないと言うのだ。まあ言われたこともなければ確かに知らないものかもしれない。説明しよう。絵札とは、J、Q、Kの3種類のカードを指していて……

「先生、JとQとKって何?」

なるほど、そもそもトランプ自体触ったことがないのか。
これには流石にお手上げだ。queenという単語がわからないとき、トランプがヒントにはならないらしい。UNOならやったことある!と言ってくれれば、まだ御の字だ。

衝撃的だったのが、小学生の授業のこと。
「もみじが黒」と言いだした子がいる。教科書の挿絵に紅葉のイラストがあったのだが、白黒印刷のテキストであったために、そのイラストは確かに「もみじが黒」なのだ。

……え?

③価値観のすりあわせ

私は少なくとも、文章が好きだ。
図書館に通ったりするし、noteで文章を趣味で書く程度には、楽しいものだと思っている。
ただ、読書感想文で原稿用紙1枚埋めることも、苦手な生徒には厳しいことを知っている。
そして、先生として、生徒たちにその訓練しなければならないとも考えている。

苦手を打ち砕くには、「楽しみ」にすり替える技術が要る。

面白い、と感じる気持ちは、向上するためのなによりの強みだと知っている。
生徒たちに、勉強が、学ぶことが、知識を広げることが、面白いことだと思ってもらいたい。それが仕事だとも、私は思っている。

でも、頭を使う娯楽はもはや、彼らの娯楽ではないのかもしれない。

最近の子ども達は疲れすぎている。学校で勉強をして、部活動に勤しんで、更に塾に来て勉強。これではへとへとだと思う。よく頑張っている、尊敬に値する。そこで楽しみや休憩の意味合いを込めて、ゲームでまで頭を使って知識を広げてこい、というのは横暴なのだろう。

その上で、講師としての本音が一つ。

塾へ来てくれたからには、そこに学びがあってほしい。
何か一つでも身につけて帰ってほしい。頑張ってきてくれたのだから、その頑張りに対する成果を持って帰ってほしい。

必要なのはやはり、疲れを忘れさせるほどの面白い勉強なんだと思う。
面白い授業を探求するほかに、私にできることはないのかもしれない。

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