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『母について』その3(完)

その後私は進学塾に通う事になり、猛烈に勉強し市内屈指の高校に入学しました。

これも今思うと放心状態の私に何かやらせないと壊れてしまう、という母の考えだったように思います。


このように私の母はここ一番、大事な分岐点という時、より厳しい状況に私を置き「踏ん張りなさい」と試練を与え、私を力強く生きる人間にしたかったのではないでしょうか。

〜獅子は我が子を千尋の谷に落とす〜



そんな母が一度だけ、私に弱っている姿を見せたことがあります。

1995年1月17日午前5時46分52秒、兵庫県南部地震発生。阪神・淡路大震災です。

私たち家族は家も仕事も失いましたが、命は助かりました。

母は逞しかった。下を向くことなく、お寺のボランティアの手伝い、友人知人のお見舞い。新たな仕事、住まいの調達。早かったです。     スーパーウーマン⁉️

それが暫くすると、震災から半年後くらいでしょうか、母の様子がおかしくなりだしたのです。

私たち家族は父母、姉、私と3つの家にバラバラに住むことを余儀なくされたのですが、父母の家を訪問すると、母が横になっているのです。

疑問に思われると思いますが、私の母は家に居る時も何かしら動いている人なのです。ましてや娘が来ているのに寝ているなんて考えられません。

私「お母さん、どうしたの?風邪?」

母「・・・大丈夫だから、ほっといて」

私「ご飯は食べたの?」

母「いらない」

私「スープだけでも飲んで!」

母「・・・食べれないの。でも大丈夫だから」

なにが⁈

精神科に連れて行きました。鬱病です。    母はみるみる痩せていき身長158cm体重35kg! 目は虚であまり話さず、このまま眠るように死んでしまう、半分そう覚悟しました。


冷気漂う夜明け前。             見よ、あの谷底のライオンを。今にもくたばりそうだ。痩せこけて息も絶え絶えだ。      ん?動きだした。前脚を一本また一本、ゆっくりと体を持ち上げ、そして崖を見上げ唾を呑み込んだ。覚悟を決めたようだ。
眼前にそびえる巨大な壁。爪を立て一歩ずつ登り始めた。                  一歩…また一歩、あ、滑った!…大丈夫だ、なんとか踏み堪えた。              爪が折れ血が流れている。それでも休み休み肩で息をし登り続けた。時折上を見ては辛そうに目を細める。…ライオンはまだ諦めていない。
あぁ、あと少しだ!がんばれ!        …ドンッ!届いた!!            前脚が地上に届くとぐいっと最後の力を振り絞り体を持ち上げた。
ばたりと地上に体を横たえた。したたり落ちる汗、目を瞑りぜぃぜぃと体で息をしている。  満身創痍。                 地平線が赤く滲む。夜明けだ。        むっくりと起き上がると、ぶるっと体をゆすり 太陽に向かって力強くライオンは歩き出した…


                   おわり

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