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映画『わたしはダフネ』

※2021年8月9日にCherlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 夏の休暇に訪ねたキャンプ場で母親が急死するという喪失体験に直面したのは、30代の娘ダフネと、父ルイジである。

 ダフネはスーパーマーケットの店員として働き、職場を「全部好き」というほど仕事を愛しているダウン症の女性。母の死の直後こそ、泣き叫び、父に八つ当たりもしたが、仕事に復帰すれば同僚たちの助けや温かさに囲まれ快活さを取り戻す。一方のルイジは狼狽する娘をなだめ、安心させようと気丈にふるまうが、娘がいち早く日常を取り戻すのに比して、喪失から立ち直れずふさぎ込む日々が続いた。

 娘ダフネは、悲観論にとりつかれた父ルイジに提案をする。母マリアが眠る彼女の故郷まで2人で歩いて行こう、と──。

 ダフネは自立志向の強い女性として登場する。ファッションはとても個性的だが似合っているし、仕事に対する思いも強い。物言いははっきりしていて、そこにはユーモアもあれば皮肉も多く、取っ付きにくさがないではない。前半、その異物感を、見た目からわかる「ダウン症」というレッテルとつなげて、こういう人が身近にいたら疲れるだろうなと思っている自分がいた。

 しかしよく考えれば、このくらいの取っ付きにくい人は別にダウン症でなくとも、なんとか障害という属性でなくとも世の中にはたくさんいる。それぞれに取っ付きにくかったり、憎めなかったりする人間の多面性を見出しながら、適切な距離感と親愛度を持って人と人は関わりあうものである。むろん、自分も例外ではない。関わる側としても、関わられる側としても。本作が進めば進むほど、当初あった異物感が消え、ダフネはただダフネとして画面にいるように見えてくる。

 父と子の関係において、母が扇の要を担っていることは現実としてしばしばある。その母が亡くなり、父と子だけが取り残されたとき、深い喪失という困難に加えて、再生のパートナーシップを構築することの手間の大きさも生じさせているのだ。そこにダウン症という特性が加わった時、親は余計に子の庇護に対する責任感を感じてしまうだろうことは想像できる。

 父は娘を守らねばならないと思う。娘は喪失から立ち直れず悲観論にとらわれた父を励まさねばと思う。その義務感、使命感がかえって、与え手と受け手という非対称性をうみ、衝突してしまう。そこで娘が提案するのが「共に母の故郷まで歩く」という営みだった。自動車なら運転手と同乗者という関係になってしまう。歩みを合わせるという相互性は、残された2人が共に生きていくために必要だったのだ。

 舞台となったイタリアでは、障害の有無にかかわらず児童生徒みんなが通常学級で学ぶ権利を持つ「インクルーシブ教育」が1970年代から行われているらしい。劇中でもダウン症者の支援団体は登場するし、ダウン症者のコミュニティーがあることは描かれているが、他の人と同じように働いておりそこに隔絶はうかがえない。それは健常者がダウン症者を受け入れるという一方性によっては成立しない世界のように感じる。

 山道を進む2人に現れる森林警備隊の優しい男性2名に、この天候ではこの先を歩くのは危ないからと、車に同乗するよう勧められ、ルイジがためらうのをよそにダフネはあっさりと申し出に甘える。自立志向の強いダフネなら「最後まで歩く!」と強弁してもよさそうだが、社会に受け入れられるためにはかくあらねばならないという規範から解放されている証しと受け取った。

 ダフネの自立と自由から、ルイジはこれまでも励まされてきたことを、泊まった山中の民宿のオーナーに打ち明けるシーンが印象的だ。共生社会を生む感受性は実践なくしては育まれない。私たちにも、ルイジのように不安を抱えながらも、歩いて行った先に見えるものがあるのかもしれない。

(2019年・イタリア、日本公開2021年7月3日。フェデリコ・ボンディ監督。原題"Dafne")=2021年8月7日、シネ・リーブル梅田で鑑賞。

パンフレットから


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