残念な佐藤さんと「おばちゃん天使」
職場から義理チョコの風習がなくなってから、どれくらい経つだろう?
ぼくは流しに立って夕食の洗いものをしている。キッチンに続くリビングのソファで、十歳年下の妻、たくみが、いつごろからか流行り始めた「友チョコ」の包みを広げようとしている後ろ姿が見える。
「さすがはトモちゃん、手作りで相変わらず凝ってるー。あ、あかねちゃんゴディバや! リッチー」
たくみの独り言はいつも、聞えよがしというわけではないが、呟きにしては声が大きい。
「晩メシ食ったあとやのに、よう食えるなぁ」
四十八歳のぼくは、ずい分前から中年太りを気にしている。
「何よそれ。モテへん男の僻みにしか聞こえへんのやけど」
たくみは、黒目がちな大きな釣り目でぼくを睨む。
ぼくはすごすごと、いつもどおりに洗いものに専念する。
結婚してからもうすぐ七年になる。ぼくは高校を出てから一人暮らしをしていたが、妻は結婚をするまで家を出たことがなかった。
だからかどうかはわからないけれど、たくみは料理ができない。結婚した当初は嬉しそうにキッチンに立っていた。しかし。味噌汁の具が多すぎる。ぼくにしてみればそれだけでおかずが三品くらい作れそうなほどの具材を使う。その味噌汁と一緒に、トマトソースのスパゲッティを出して来た。
「このソース、あたしが自分で全部作ったんやで」
組み合わせにも文句はあったが、機嫌のいいたくみを怒らせたらタチが悪いことは、結婚前からよく知っていた。何も言わなかった。
スパゲッティを食べてみて驚いた。ぼくなら――あくまでもぼくなら。いや。イタリア料理店で食べてもそうだろう――トマトソースは少ししょっぱくないか? なのにこのソースは、甘い!
ぼくはたくみの誤りを指摘する前に、妻が自分で味の感想を口にするのを待った。
「あれ? これ甘いよなあ?」
「お前、塩と砂糖間違えた?」
「あーはははは! ほんまやあ! ははははは」
豪快に笑う妻に反省の色はない。知り合ってからこのかた、たくみが反省した姿というものを、一度も見たことがない。
料理のときに塩と砂糖とを間違えるなどという初歩的なミスは、ドラマかまんがの中だけだと思っていた。よもや自分の妻になる女がそれを体現してくれるとは……残念である。
たくみが苦手なのは料理だけではない。
部屋の掃除をさせたら不思議なことに却って部屋が散らかっていき、結局はぼくが片づけることになる。二度手間になるだけである。
なので、全ての家事はぼくの仕事になった。長年自分のためにし続けてきたことだったし、元々家事は嫌いではなかったから、たくみに腹を立てたことも、面倒だと感じたことも一度もない。
そうしてたくみは毎年バレンタインデー直前の休日には、会社で配る友チョコを作ってくれと頼んで来る。毎年決まって、である。が、それは断る。おかずを作るのは好きだが、お菓子は材料の分量をきっちりと量らないといけないから苦手なのだ。だから毎年妻は、近所のスーパーで友チョコ用のチョコレートを買っている。なのに、毎年同じ時期になると、同じことをぼくにねだる。それは、コイツに限っては甘えなどという可愛いらしいものではない。一年経つとすっかり忘れてしまうだけのことなのだ。
「オレは別にチョコレートなんて大して好きじゃないって言ってるやろ」
鯖の塩焼きを載せていた白い皿をこすりながら呟いた声は、思いがけず自分にも、ふてくされているように聞こえた。
「ヒロシってさぁ」たくみが、ソファの背もたれにあごを置いて、こちらに顔を見せる。「バレンタインデーに本命のチョコレートなんて、もらったことあるん?」
「……」
あるような、ないような……。
このがさつな妻からもらったことがないことだけは、真実だ。
「なあ、どうなんよぉ」
「たぶん……ない」
「なーによ、それ」
妻はぼくに背を向けて、つけっぱなしのテレビを見ながら、友チョコを口へ入れ始める。
ぼくは食器をスポンジでこすりながら考える。
久しぶりに思い出した、あのできごと。それ自体、いまだによくわかっていない。ましてやそれが「あの人」にとっての「本命」のチョコレートだったのかどうか……「あの人」が誰だったのか、さえも。
すると、その不思議なプレゼントを口に入れたときの、奇妙な味が何年かぶりに、舌の上へ蘇えってきた……。
あれは二十年ほど前、まだ二十代半ばの頃のこと。その年の二月十四日、バレンタインデーは、ちょうど土曜日だった。
ぼくは大学時代の男友だちとバンドを組んでいて、その日も練習を入れていた。ぼくを含めて四人いるメンバーのうち、当時はまだ一人しか結婚していなかった。
普段なら練習のあとで飲みに行くのだけれど、その夜は誰とはなしに、いかにも自慢げに、
「今夜はカノジョと会うから」
と言って、寄り道をせずに解散することになった。
当時のぼくはと言えば、バンド仲間でぼくと同じくまだ独身だったヨウが、紹介してくれた彼女と別れたばかりだった。別れた、と言うよりは、一方的に振られたと言うほうが正しい。その女は勝手にうちに住み付き、ぼくの生活に入り込んで来たくせに、出て行くときも突然だった。
彼女を紹介するときにヨウは、
「会社では、マリリン・モンローとスリーサイズが同じなんじゃないかって噂されてんねんで」
と冷やかした。
彼女と初めて会うことになったとき、ヨウは待ち合わせの喫茶店と会う時刻だけをぼくたちに伝えたきり、ヨウ自身は姿を見せなかった。ぼくは目印に、当時吸っていたたばこである、キャスターマイルドを持つようにヨウから言われた。彼女のほうは、茶色がかった長い髪をした美人だからすぐにわかるだろう、ということだった。
当日喫茶店へ行った。入ってすぐに、それらしい女性を見つけた。確かに胸が大きい。しかし彼女は肩をすぼめてうつむいて座っている。
ぼくは相手を確認し、彼女の前の席に座った。
それぞれに注文を終えたあと彼女は、
「わたしブスでしょ?」
上目遣いに、いきなり言った。
「へぇ?」
ぼくは驚いた。そして、彼女の顔立ちをじっと見る。
肌はきれいだ。それは美点だと思う。造りは全体的に小さく、すぐに覚えられる顔ではないなと感じる。だけど、けっして「ブス」ではないと思う。ヨウだって美人だと言っていたじゃないか。
ぼくの視線が品定めをしているのに気づいたのだろう。彼女は、
「ね。ブスよねぇ?」
また言った。
「全然そんなことないよ。なんでそんなこと気にするん?」
純粋な疑問だった。
「わたし、スタイルがこんなんやから、体だけが目当てで珍しがって近づいて来られて……話もあんまりしてないのに、体に飽きたら『このブス!』って言って、元カレからも先月捨てられたとこやねん」
「そんなんは男のほうが悪いわ」あけすけな発言に少々ひるんだが、ぼくは素直な気持ちを口にした。「そうや。男が悪いんや」
彼女はそんなぼくに好意を持ってくれたようだった。
彼女がうちへ住み付いたのは、それからひとつきもしないうちだった。これにも驚いた。
彼女は、ハリウッド女優のキャメロン・ディアスのことを嫌っていた。
「確かにスタイルはいいかもしれへんけど、この程度の顔の女優が、なんでハリウッド映画のヒロインやれるわけ?」
自虐かと思ったが、ぼくは口にしなかった。彼女の心の傷を抉りかねないと思ったから。
ぼくはキャメロン・ディアスが好きだ。確かに美形ではないかもしれないが、笑ったときにできるえくぼや、アッシュグリーンの瞳がとてもキュートに感じられるからだ。しかしそんなこともその女には言わなかった。
こういう、思ったことを言わない点が――ぼくが彼女に対して的外れな遠慮をしてしまい、言いたいことを言わなくなっていったことが、彼女にはもの足りなくなったのだ、と、あとでヨウから聞かされた。
白いため息を一つつく。
惚れてたんやなぁ……。
一年で一番寒い時期。土曜の夜。腕を組んで歩くカップルばかりが目に付く街を、コートのポケットに両手を突っ込んで、ベースを背負って歩くぼくは、ひどく惨めな気分になった。
そんなとき。
「なあなあ!」
勢い良く後ろから、左の肩を叩かれた。掠れた声。今思うとどこかで聞き覚えのある、懐かしい声だった気がする。
立ち止まって振り向くと、ぼくより少し背が低く、ぽっちゃりした女性が立っている。見たことのない人だ。茶色いダウンのコート――そう言えばあのとき、「軽くてあったかそうだなあ」と、その頃にしては珍しいと感じたことを思い出す――は見事な円筒形をしていて、下腹が出た中年太りの体型をしている。笑いながらぼくを見上げる目尻には、たくさん皺ができている。まぶたも少し下がっていて、黒目がちな瞳をやわらかく覆っている。五十歳くらいだろうか。
「何か?」
ぼくはただただ不思議で、尋ねる。
「これあげる」
その人は、顔に皺が増えるのにもかまわずに、ニカッっと笑う。初対面の筈なのにとても人なつっこい笑顔だ。その表情はまるで、しぼんだ風船のようになっていたぼくの心に、一気に大量の空気を吹き込んで、膨らませてくれるほどのパワーを持っていた。
その人はコンビニエンスストアでスナック菓子を買ったときに渡されるくらいの大きさのビニール袋を、ぼくに突き付けた。
と。
とたとたと、スニーカーを履いた足で走り去って行った。すぐに人ごみに紛れて、見えなくなってしまった。
ぼくは歩道の隅に身を寄せる。
袋の中を覗く。
握りこぶしくらいの大きさのタッパーが入っている。まるで晩メシのおかずを一品もらったような気分になる。
タッパーの蓋をあける。中身は、チョコレートをトッピングした、クッキーだ!
ぼくは戸惑う。
あの人は誰だ?
どうしてぼくにこんなものをくれたのだ?
よりにもよってバレンタインデー、しかも、彼女に振られたばかりの惨めな気分でいたときに……。
しかしあの人――おばさんは既に立ち去ってしまっていて、どこへ行ったかももはやわからない。
「おばちゃん天使、ってトコかな」
ぼくは心の中で呟いた。冷え切っていた体が温まるような気がした。思わず微笑みがこぼれた。
部屋に戻り、リビングの暖房を付ける。
ソファに座り、よもや毒は入っているまいと思いつつも、一応匂いをかいでから、クッキーを口に入れる。
なんだこの奇妙な味は! しかし、少なくとも毒ではなさそうだ。と言って、毒の味を知っているわけでもないが。味わったことが一度もない味ではない、という点では安心するのだが、ともかく口の中で混ざり合う味覚が、全く未知のものなのだ。
もう一つ食べてみる。
やはり口の中で、感じたことのない味がして、どうもなじまない。
ぼくはチョコレートが乗った小さなクッキーを、右から左から、上から下から、斜め上、斜め下と、あらゆる角度から眺める。普通の、丸くて平べったいクッキーだ。薄い茶色をしている。
クッキーの部分だけをかじる。甘い。
てっぺんに、絞り出された黒いチョコレートが乗っている。
それをそっと外して、口に入れる。
これだ! これが塩辛いのだ!
でもせっかくもらったんだし……あの「おばちゃん天使」に……それに、我慢して食べられないほどでもない。クッキーの部分はちゃんと甘くて美味しいから……。
それが、バレンタインデーにチョコレートをもらった唯一の思い出だ。
「可哀そうなヒロシくんに、友チョコをお裾分けしてあげようねぇ」
いつの間にかたくみが傍に立っている。金色の包みをはがし、一口大の黒いチョコレートをぼくの口に入れようとしている。
口をひらいてたくみを見る。
そう言えば!
この黒目がちな目。掠れた声。
あの「おばちゃん天使」に似てはいないか? どうして今まで気づかなかったのだろう。
そうだ! あのおばさんはきっと、何十年かあとの、この妻だったのだ。だから料理が下手で、チョコレートからもなぜか塩の味がしたのだ! プレゼントを渡すのに、タッパーを使うというのも、このがさつなたくみならやりかねない。
とすると、何十年かあとのバレンタインデーに、惨めな若者を思って、この妻が、チョコレートが乗ったクッキーを手づくりするのか? クッキーだけはまともに作れるほどに料理が上達するのか……?
……。
先のことはわからない。まあいい。
でもただ一つ確かなこと、わかったことがある。
ぼくは、少し苦いチョコレートを口の中で溶かしながら、
「お前、太ってもいいからな」
と言う。やさしく微笑んだつもりだったのだけれど……。
「何よ、それ!」たくみは頬を膨らませる。「晩ご飯のあとでいつもパクパクお菓子食べてるからそのうち太るゾって思ってるんやったらはっきりそう言うたらええやろ! 遠回しなイヤミほど腹の立つことってないわ。アンタがそんな男やったとは思わんかった」
「勘違いするなよ」
「じゃあどう解釈すればええんよ!」
「……」
ぼくはことばに困る。「数十年後にお前は『おばちゃん天使』になって、若い頃の俺を救うんやで」と言ったところで、「わけわからん。そんなことでごまかされへんからな」と突き放されるに決まっている。
「ほら。やっぱりそうなんやん。アンタなんかに一つでもチョコレートを分けてやってソンしたわ。あかねちゃんのゴディバやったのに。もったいない」
たくみは既にリビングへ戻ろうとしている。ソファに座り、ぼくに後頭部を見せ、テレビの画面に見入り始める。やがて、
「あーははははは!」
バラエティ番組を見て豪快に笑っている。
家事もしない。口も悪い。めったにやさしくもしてくれない。
それでもぼくには大事な妻なのだ。
ようやく全ての食器を洗い終えたぼくは、食器乾燥機のスイッチを押す。ブーンと音を立てて機械が動き始める。たくみの笑い声にベースの音を添える。
タオルで手を拭きながらぼくはため息をつく。
ぼくの元へ再び「おばちゃん天使」が現れてくれる日なんて、やって来ることはあるのだろうか? あれがたくみだったとしたら……まずないだろう……。
きょうは貴重なゴディバを一粒分けてもらっただけでもヨシとしよう。美味かったしな。
四百字詰め原稿用紙換算 十八枚 了
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?