川べりに泣く少女

 夕食の前、十歳になったばかりのチリちゃんと両親は、台所に集まっていた。

 チリちゃんは、ログハウスのような家の屋根、天井からしとり、しとりと落ちてくる雨のしずくを見上げて、雨のしずくのようにゆっくりと、ほほに涙を流し始めた。

 後ろからお父さんが、座っているチリちゃんの左肩に手を乗せる。

 チリちゃんはいよいよつらくなって、両手で顔をおおい、声を立てて泣き始める。

「あ! 雨(あま)もりだ! お姉ちゃん、シャーマンかもしれないじゃん。すごぉい!」

 五歳の妹がやって来た。

「チリ。できるよね?」

 お母さんがたずねる。

「まだうちが一番と決まったわけじゃない」

 後ろからお父さんも言う。お父さんはチリちゃんの長い髪の毛をなでる。

「わかってるけど……」

 チリちゃんは涙が止まらない。

「腹減ったー!」チリちゃんの兄が台所へ走って来た。お兄ちゃんはこげ茶色の天井を見上げ、相変わらずしとり、しとりと垂れてくる雨を見つけると、「おお! チリ、シャーマンなんじゃねえ? すげえ」

 と、喜びをふくんだ声で言う。

 チリちゃんはますます泣きじゃくる。

 お母さんもチリちゃんのそばへやって来て、チリちゃんを横から抱き寄せた。


 その村には、一年のうち六十日ほどしか雨が降らない。その時期に雨が降らないと農作物が育たない。だからその期間にたっぷりと雨の恵みを受けるために、天の神さまへ祈りをささげる「シャーマン」がえらばれる。「シャーマン」は、十歳から二十歳(にじゅっさい)までの少女でなくてはならない。

 この年、これまでの「シャーマン」が二十歳を過ぎた。なので、その年の初めての雨が降ったとき、一番に雨(あま)もりをした家に住む、十歳から二十歳の少女が、新しいシャーマンに選ばれることが決まっている。

 初めての雨が降ったとき、雨もりをした家に少女がいたら、村の真ん中の、村で一番大きな家に住む、長老さまの家へほうこくに行かないといけない。

 だからまだチリちゃんがシャーマンと決まったわけではないのだ。もしかしたらチリちゃんより先に、長老さまの家をおとずれている少女たちがいるかもしれない。

 この村には伝説があった。

 昔、一番の雨もりをほうこくした家には、十三歳の少女がいた。彼女がその年からのシャーマンになった。彼女はこれまでと変わりなく儀式(ぎしき)を行った。村の人たちはその儀式をとても楽しみにしている。村中の人々がその儀式を見るために一斉に集まって来る。

 長老さまの家のとなりには、「神殿(しんでん)」がある。神殿の一番上は正方形になっていて、そこへ向かう四つの階段が広がっている。南を向いた階段からシャーマンは長老さまの元に階段を上る。

 神殿の前の芝生の広場で、一人の男がニワトリをおさえ、もう一人の男がニワトリの首を斧(おの)で切り落とす。

 儀式に使うニワトリをおさえる男の家、首を切る家、差し出す家は、毎年ちがう。村の中の家を、じゅんばんに回って行くのである。

 シャーマンはそのニワトリを両手にかかえて長老さまの元へ行く。ニワトリの首からはずっと血がしたたり落ちている。その血が、天の神さまへのごほうびなのだと言われている。

 毎年死んだニワトリが長老さまに手渡されると、空が急にくもり始め、村にざあざあと雨が降り始める。それが約六十日続く。村人たちは広場でかんせいを上げて、ある者はだき合ってまでしてよろこぶのだ。

 昔シャーマンに選ばれた十三歳の少女も、同じ儀式をおこなった。しかし空は晴れたまま。当然雨も降らない。

 長老さまだけでなく、村の人たちもとても困った。

 次の日に、ニワトリを殺す男を二人とも、同じ家でくらすちがう人に変えて、もう一度儀式をやり直すことになった。それでも雨が降ることはなかった。

 結局その年は雨が降らなかった。

 農作物は育たず、ニワトリたちのえさもなく死んでいくばかり。村の人たちはみんなお腹を減らし怒りっぽくなり、けんかがふえた。

 冬になると、長いあいだ食べものを口にすることができなかったために、死んでしまう者もあらわれるようになった。

 そのときになって、長老さまの家をおとずれた家族がいた。その家族のお父さんは、

「うちでもあの日、雨もりをしました」と、長老さまにあやまった。「娘がシャーマンにはなりたくないと言ったので、長老さまの家へ来なかったのです」

 と言った。十六歳の少女がうつむいていた。

 すでにシャーマンに決まっていた十三歳の少女も呼び出され、そうだんをした。

 十三歳の少女はなっとくし、シャーマンではなくなり、十六歳の少女がシャーマンに決まった。

 その次の年からは、十六歳の少女がシャーマンになり儀式をおこなった。しかし、一度へそを曲(ま)げてしまった天の神さまの機嫌(きげん)を直すことはできなかった。彼女がシャーマンをしていた四年間、村はあまり雨の恵みにあずかることができず、あらそいがたえなかったという。

 チリちゃんだけでなく、チリちゃんの家族はみんな、そのときのことを思い出していた。


 夕食のあと、チリちゃんは家の外に出た。家の隣には、家と同じくらいの大きさの、ニワトリの小屋がある。

 もう雨はやんでいる。夕焼けの色が辺りを染めている。土の表面にできた小さな水たまりに夕焼けの色が反射して、美しい光を放っている。

 儀式の前の雨は、毎年それほどはげしくは降らず、すぐにやむ。まるで、儀式の時期が来たことを、村人たちへ知らせる合図のように、少しだけ降るのである。

 チリちゃんはニワトリ小屋の前にかがみこみ、ひざをかかえる。

「チリちゃん。元気ないねえ」

 チリちゃんはニワトリと話をすることができるのだ。チリちゃんが知る限り、この村で同じ力を持つ人はいない。でももしかしたら、昔すぐにシャーマンになろうとしなかった人も、チリちゃんと同じでニワトリと話をする力があって、いけにえにニワトリをささげるのがいやだったから、長老さまの所へすぐには行かなかったのかなとは考えている。

「わたし、シャーマンになるかもしれないの」

 ほかのニワトリたちも近づいて来て、言う。

「チリちゃんにはピッタリだよ!」

「ほんとね。すてきだわ」

「どうして?」チリちゃんはニワトリたちにたずねる。「ニワトリさんをかかえて神殿を上らないといけないんだよ。わたし、ニワトリさんのお肉も食べることができないのに。儀式なんてニワトリさんがかわいそうで、一度見に行ったきり……それもあまりにもニワトリさんがかわいそうだったから、とちゅうで泣いて、逃げて家に帰って来たくらいなのに……」

「だからだよ」

「そうそう」

「わたしたちの気持ちをよくわかっていて、わたしたちを大事にしてくれるチリちゃんだから、シャーマンにはぴったりだと思うのよ」

「どうして? 切られたら痛いでしょ? 死んじゃうのいやでしょ?」

「でもそうしないと、もっとたくさんの仲間が死ぬことになるだろ?」

 チリちゃんは言い返すことができない。

「でもまだ長老さまの家には行ってないんだろ?」

「じゃあまだちゃんとチリちゃんに決まったわけじゃないんだ」

「チリちゃんがシャーマンになったらいいな」

「うんうん」

「ほんと、そうよねえ」

「……」

 チリちゃんは何も言えずに立ち上がる。家とニワトリ小屋のあいだの三十センチほどのすきまを抜けて、家のうらへまわる。そこには川が流れている。チリちゃんはそこでまたしゃがみこむ。

 チリちゃんは、ニワトリたちなら自分がシャーマンになることに反対してくれると思っていた。なのにみんながあんなに喜んだことに傷ついた。

 チリちゃんはニワトリの肉を食べることができないけれど、ニワトリたちはそれも「さびしい」と言う。「チリちゃんにも味わってもらいたいな」と、さびしそうにチリちゃんへ伝えて来る。チリちゃんが玉子だけは食べるよと言ったら、ニワトリたちは本当にうれしそうに、

「ぼくたちはそうやってチリちゃんの一部になるんだよ」

「わたしたちにとってはそれがとってもうれしいことなのよ」

「そうそう。それがぼくたちの役目だからね」

 口々によろこびを伝えて来るのだ。

「ふうー」

 チリちゃんは川に向かって大きなため息をついた。

「やっぱりここにいたんだな」お父さんがそばに立っている。「お兄ちゃんや妹とけんかしたときはいつも、ここで一人で泣くもんな」

 お父さんは笑っている。やせていて背が高い。

「長老さまの家へ行くの?」

「うん。お母さんはそろそろ行こうって言ってるよ。チリがいやなのは、お母さんもお父さんもわかってる。一番よくわかっているよ。だけど村のみんなのためなんだ。それに、うちが一番だって、まだ決まったわけじゃないだろ? 悲しむのはそのあとでもいいんじゃないか?」

「そうだよね。まだ決まってないもんね」

 チリちゃんはお父さんの手を引っぱって、家の中へ入って行った。


 長老さまの家からの帰り道。お父さんとお母さんにはさまれて、チリちゃんはしくしくと泣いた。お父さんもお母さんもチリちゃんには何も言わない。

 この年村で一番めの雨もりをしたのは、チリちゃんの家だった。チリちゃんは十歳になったばかりだから、新しいシャーマンにはちょうどいい。長老さまはチリちゃんがニワトリと話をできることを知っていた。

「つらいだろう? だけどこれもチリちゃんがおとなになるために大事なことなんだよ。天の神さまはその人が乗りこえられるつらいことしか与えない。にげたらいけない。いいおとなにはなれない。チリちゃんはかしこい子だ。わかるね?」

 長老さまはチリちゃんの頭へ手をのせた。チリちゃんは、そのあたたかく重たい手のひらの感触と、長老さまのことばとが忘れられない。それははげましのようでありながら、涙ぐむチリちゃんをつきはなすことばでもあったからだ。

「ほんとに乗りこえられるつらいことしか、天の神さまは与えないの?」

 チリちゃんはお父さんとお母さんに尋ねる。交互に両親の顔を見上げる。

「どうかなあ……」お父さんは、ちらちらと星がまたたき始めた空を見上げている。「オレはそういうこととは関係なく生きて来たからなー」

 お父さんのことをお母さんはよく「お気楽でのんきな人」と言うが、チリちゃんはこのとき、お母さんの言うとおりだと思った。

「長老さまのおっしゃることはほんとよ。アタシを見てごらん。こんなたよりないお父さんとでも、なんとかアンタたち三人の子どもを育てていられるんだから。アタシにとってはお父さんと結婚したことが、天の神さまから与えられた最大の試練だと思うわよ。チリはそうは思わない?」

 お母さんはチリちゃんの気持ちを楽にさせたくてじょうだんを言っているのか、本心なのか、チリちゃんにはわからない。だけどお母さんの言うとおりのような気がする。

「でもお母さん、お父さんのことが好きでしょ?」

 チリちゃんのことばに、お母さんは返事をしない。そっぽを向いてしまう。

「お母さんはオレのことが大好きなんだよな」

 お父さんはうれしそうに、丸い目をお母さんに向けている。

「チリはお父さんのこと、大好きだよ。お母さんのこともね」

 チリちゃんはまた両親の顔を交互に見上げる。二人はチリちゃんに向かってほほ笑んだ。

 家が見えて来たころ。

「あしたは儀式だ。今夜はぐっすり眠るんだよ」

 お母さんが言った。

 チリちゃんはまたゆううつな気分に戻ってしまった。

 お父さんは長老さまと同じように、チリちゃんの頭に手をのせる。

 チリちゃんは、長老さまの手のほうが温かかったなと思う。だけどお父さんが言いたいことが、チリちゃんにはわかった。「無理に眠らなくてもいいよ」と伝えたいのだろう。

「大丈夫。長老さまが言ったんだもんね。乗りこえられるって。わたし、がんばるね」

 チリちゃんは自分でもその声が、「がんばる」ことを宣言するときのひびきを持っていないことを、はっきりと感じていた。


 それから毎年、儀式の前の夜、チリちゃんは一瞬も眠ることができなかった。

 目の前でニワトリが首を切られる。ニワトリたちはそのたびにチリちゃんの心へ向かって、

「あなたがシャーマンで良かった。村の人たちをお願いね」

 とおだやかに話しかけてから死んだ。

 それは想像以上につらいことだった。

 チリちゃんは毎年泣きながら、長老さまが待つてっぺんへ、階段を上った。

 そして毎年長老さまは、

「ことしもよくがんばってくれてありがとう」

 とほほ笑みながら、チリちゃんから首のないニワトリを受け取るのだった。

 チリちゃんは十八歳になった。つらい儀式もあと二回で終わる。

 しかし去年、チリちゃんのお父さんは儀式のとき、ニワトリの首を切る役目をした。ことしはチリちゃんの家から、儀式で使うニワトリを差し出さないといけない。


 しかしチリちゃんには、十八歳の儀式ほど、ゆううつなものはなかった。

 お父さんとお母さんが、どの子を差し出すかのそうだんをしているとき、チリちゃんはニワトリ小屋へ逃げた。

 だけどニワトリたちは、

「だれがえらばれてもうれしいよ」

「そうだよ。チリちゃんたちの役に立てるんだから」

 と、まったくいやがっていないのだ。

「ほんとに? ほんとにいやじゃないの?」

 チリちゃんには信じられない。死んでまで役に立ちたいなんていう気持ちが、本当にあるのだろうか?

 チリちゃんが考えたことはニワトリたちへすぐに伝わる。

「チリちゃんにもいつかわかるときが来るよ」

 ニワトリたちは笑っている。

 チリちゃんはシャーマンに選ばれたとき、長老さまから言われたことを、また思い出す。

「これもチリちゃんがおとなになるために大事なことなんだよ。天の神さまはその人が乗りこえられるつらいことしか与えない。にげたらいけない。いいおとなにはなれない」

 チリちゃんは毎年儀式の前になると、長老さまのそのことばを思い返していた。そしていつも、

「それは本当なのだろうか? 天の神さまが乗りこえられる試練しか与えない、っていうのも信じられないし、にげたらいいおとなにはなれない、っていうのもわからない。だって村の人たちはみんなニワトリさんたちと話ができない。これまではわたしみたいな子がシャーマンになったかどうかもわからない。どうしてよりによってわたしがシャーマンに選ばれてしまったんだろう。やっぱり長老さまの言うとおりなんだろうか? でもやっぱりそれも信じられない……」

 と、同じことをぐるぐると悩んで来た。その答えが見つからないままに、この年をむかえてしまったのだった。


 ある夜チリちゃんが台所へ行くと、お父さんとお母さんはチリちゃんが来たのに気づいて、いきなり話をやめた。

 チリちゃんはお父さんとお母さんとが、いよいよいけにえにするニワトリを決めたのだとすぐにわかった。

 チリちゃんはそのままフイと両親から逃げるようにして、家の裏へ行った。もしかしたらお父さんが追いかけてくるかもしれない、チリちゃんはシャーマンに選ばれるかもしれないとわかった夕方のことを思い出す。そのあとにも何度か、お父さんがチリちゃんをむかえに、川べりへやってきたことがあった。

 チリちゃんは別にかまってほしくていつも川べりへ行くのではない。村のどこにもかくれる所がないから、しかたなく川べりへ行くのである。

 チリちゃんはしゃがみこんで川をのぞきこむ。まだことしは初めての雨も降っていない。太陽はとっくにしずみ、辺りは真っ暗である。

「どのニワトリさんに決まったんだろう。どの子が選ばれてしまったんだろう。どの子でもわたしはいやだ。ニワトリ小屋へ近づくのもいやだ。あの子たちのだれかを、首を切られたあの子たちのだれかを、かかえて長老さまの元へ届けないといけない。これまでは知らないニワトリさんだったけどあんなに悲しかった。なのに知っている子だったらどうなるんだろう? わたしに乗りこえることができるんだろうか。たぶん無理だ。想像しただけでも気を失ってしまいそうだ。あの子たちの顔なら全部見分けられる。男の子、女の子、年を取った子、幼い子。全部知ってる。みんなと仲良しだ。どの子でもいやだ……」

 そう考えるとチリちゃんは、悲しくて悲しくて、スカートに顔をうずめておんおんと泣き始めてしまった。

 すると、

「チリちゃん」

 と男の人の声がする。

 チリちゃんはお兄ちゃんの声かと思ったけれど、声は後ろからではなく前から聞こえる。チリちゃんの目の前には川しかない。おかしいなと感じたら、涙が止まった。チリちゃんは顔を上げる。川の向こうに目の丸いやせた男の子が立っている。お兄ちゃんと同い年くらいのようだ。でも小さな村である。村に住んでいる人のことは全員知っている。見たことのない人だ。

 それに川の向こうへ行く道はない。チリちゃんだって行ったことはない。川のはばは三メートルくらいある。去年の夏にお兄ちゃんが、川を飛びこえて向こうへわたろうとして失敗した。ずぶぬれになってしまって、お兄ちゃんはお母さんからものすごくしかられた。お兄ちゃんはドジじゃない。走るのも速い。お兄ちゃんでも飛んでわたれなかった川の向こうに、お兄ちゃんと同じくらいの年の男の人が立っている。

 誰?

 どうやって?

 それまで悲しみでみたされていたチリちゃんの心は、ぎもんでいっぱいになった。

「チリちゃん」

 男の人はまたチリちゃんの名前を呼ぶ。ほほ笑んでいる。

「どうしてわたしの名前を知ってるの? どうやって……」

 とぎもんを次々と言おうとするチリちゃんを、丸い目のやせた男の人はさえぎった。

「チリちゃんはやさしくて強い。泣かなくてもいいんだよ」

「わたし強くない。だから泣くんのよ」

「ううん」男の人は笑う。「強いから泣くんだよ。ほんとに弱い人だったらにげるんじゃないかなあ。チリちゃんはちゃんと向き合っているからつらくなって、悲しくなって、そうやって泣くんだとぼくは思うよ」

 チリちゃんは「そうなのか!」となっとくする。だけどそれで、ことしの儀式からにげ出せるわけではない。

 と言おうとしたとき、また男の人は言う。

「大丈夫。なんにも心配はいらないよ。みんな君のことが大好きなんだよ。きみは本当にやさしいからね」

「やさしい?」

 チリちゃんには意味がよくわからなくて、男の人から目をそらす。黒い川へしせんを落とす。

 と。

「またここにいたのか」

 後ろからお父さんの声がする。

 チリちゃんが振り向くと、お父さんはにこにこと笑っている。

 チリちゃんはもしかしたらいいことがあるのではないかと思い、

「ことしの儀式、うちのニワトリさんを差し出すの、なしになったの?」

 と、たずねてみた。

「ああ……そのことかあ……」

 お父さんはチリちゃんの目を見ない。

 チリちゃんは、やっぱりそのことからにげることはできないんだなとがっかりする。そして、そう言えばお父さんがにこにこするのはいつものことで、とくに理由もなく笑っているのだったなと思い出す。

 そしてもう一度川の向こうを見る。

 丸い目のやせた男の人はもういない。

「ねえお父さん。さっきあそこに男の人がいたよねえ? お兄ちゃんくらいの年の人」

 チリちゃんは川の向こうを指でさす。

「お兄ちゃんくらいの年の男の人? いや。見なかったよ。でもあんな所、どうやって行くんだ?」

「わたしもおかしいって思ったの。でも聞こうとしたらその人がしゃべって、答えてくれなかったの」

「村のだれかじゃなかったのか?」

「ちがう。知らない人。丸い目をしたやせた人」

「こんなうすぐらいのに、あんなにはなれてるのに、丸い目をしてやせてるって、見えたのか?」

「あ、そうよねえ……でも丸い目をしてたの。それだけははっきりわかったの。あと、お兄ちゃんみたいにやせてたの」

「お兄ちゃんの目は丸くないしなあ。村にお兄ちゃんくらいの年で、やせて丸い目をした男の子はいないしなあ……ヘンな話だなあ」

「うん。とってもへん」

「チリ、その子のこと好きなのか?」

「もう」チリちゃんは笑う。「お父さんが言うこともへんだよ」

「チリに好きな人ができたら、一番にお父さんに言ってほしいなあ」

「えー、いやだよお」

 チリちゃんは三年ほど前に、好きな男の子ができた。その気持ちはすぐになくなったけれど、そのことはお母さんにしか話さなかった。妹は口が軽いから打ち明けなかった。お父さんに話そうとは、考えもしなかった。

「さ。ごはんだよ。うちに入ろう」

「うん」

 チリちゃんは少しのあいだ、悲しみもぎもんもなく、お父さんと楽しい時間をすごすことができた。でも家にもどるとなると、さっきお父さんとお母さんが話をやめたときのようすが思い出される。

「どの子を差し出すか、決まったんだね」

 チリちゃんは小さな声でお父さんに言う。

「ああ」

 お父さんの声も小さい。

 チリちゃんはどの子に決まったかを知りたいと思った。だけど知ってしまったら、ますますニワトリたちと会うことがつらくなると思ったから、たずねるのはやめにした。


 その年初めての雨が、わずかに降った。

 チリちゃんはいよいよゆううつになった。

 あしたは儀式だ。

 チリちゃんは自分の部屋に閉じこもる。

 チリちゃんは妹と同じ部屋を使っている。

 にぎやかな妹が、

「お姉ちゃん。儀式に差し出すニワトリ、見に行こうよ。お別れだよ」

 とチリちゃんをさそう。

 妹はむじゃきで、わるぎがないことをチリちゃんはよく知っている。だけど今はそんな悪意のない妹のことばが、余計にチリちゃんをつらくする。

「わたしはいい。一人で行っておいで。どうせお兄ちゃんも行ってるんでしょ」

「はーい。行ってきまーす」

 妹はばたばたと足音をたてて、家の中からかけ出して行った。

 今夜のうちに、あした差し出されるニワトリは長老さまの家へ連れて行かれる。重すぎてシャーマンがかかえられなかったらこまるので、今夜とあすのあさ、いけにえのニワトリはごはんをもらえないのだ。

 チリちゃんの目の前には、家でかっている全てのニワトリの顔がじゅんばんにうかんでくる。

「あの子もいや。この子でもいや。その子ならもっといや。

 家族が食べるために殺されるだけでもいやなのに。家族が食べるだけなら目をそむけていたらすむけど、儀式のときは首を切られたニワトリさんをかかえて、長老さまの元まではこばないといけない。本当にいや。初めて儀式をした前の夜よりもいや。あした、わたしは儀式を終えることができるんだろうか?」

 しばらくして妹が帰って来た。自分の家のニワトリが儀式で使われることをとても喜んでいる。お兄ちゃんも大はしゃぎをしていると言う。

 チリちゃんは、それがふつうなんだろうなあと考える。

 自分の家で育てているニワトリが儀式で使われることは、三十年に一度ほどしか巡って来ない。言ってみれば自分の家のニワトリの「晴れぶたい」である。自分たちがどれほどりっぱにニワトリを育てたか、どれほど大事に育ててきたか。村中の人たちに見てもらえるのだ。

 妹はベッドに飛び込み、チリちゃんのほうを向いて大きな声でうれしそうに言う。

「アタシ、今夜は眠れないかもしれない。うちのニワトリが儀式に使われて、それをお姉ちゃんが長老さまの元へ運ぶなんて! 村の人たちみんながうらやましがってるんだよ。こんなことめったにないことだね、って」

 妹は目をきらきらさせている。

 二つ並んだベッド。

 妹のかがいたひとみがあまりに近すぎて、まぶしくて、つらくなって……。

 チリちゃんは寝がえりを打ち、妹に背中を向けた。

 このままこうふんしている妹を見ていたら、つみのない妹をせめ立て、泣きさけんでしまいそうに思えたのだった。


 暗い部屋の中。目を閉じても開いても、チリちゃんの目の前には、自分の家でかっているニワトリたちの顔が、一羽ずつ浮かんでは消えて行った。彼らは、チリちゃんにしか見えないスクリーンの前で、終わりのないローテーションを一晩中続けた。チリちゃんは部屋に朝陽が射し込む頃、ベッドに顔をうずめてすすり泣いた。

「お姉ちゃん」妹が目を覚ました。「お姉ちゃんはわたしのホコリなんだよ。自慢なんだよ。お姉ちゃんにふしぎな力があることも、わたしのホコリなんだ。だから負けないで。つらいだろうけどがんばって」

 いつもはにぎやかでやかましい妹は、おだやかにチリちゃんに声をかける。ヒクヒクと上下するチリちゃんの細い肩に、軽く手をのせた。チリちゃんは初めて、妹の手の温もりを知った。そして、妹も大きくなったのだと感じる。さらには、チリちゃんがシャーマンに選ばれたときの、長老さまの手の温もりを思い出す。

「つらいだろう? だけどこれもチリちゃんがおとなになるために大事なことなんだよ。天の神さまはその人が乗りこえられるつらいことしか与えない。にげたらいけない。いいおとなにはなれない。チリちゃんはかしこい子だ。わかるね?」

 長老さまのことばの意味は、まだ本当なのかどうかチリちゃんにはわからない。

 だけどきょうこそ信じてみよう。

 チリちゃんはそう思い、ベッドから体を起こした。


 広場でチリちゃんは待つ。目の前には近所のおじさんたちが立っている。一人はおの片手にぶら下げている。

 またチリちゃんの心の目の前に、家でかっているニワトリたちの顔が現れ始める。

 チリちゃんは大きく目をつむり、何度も首を横に振って、ニワトリたちのまぼろしを追い払う。

 やがて。

 チリちゃんのお母さんが、ニワトリを連れてチリちゃんに近づいて来た。

 チリちゃんはそのニワトリから目をはなすことができない。

「この子が選ばれるなんて……でも、どの子が選ばれてもわたしにはつらいこと……」

 一人のおじさんがニワトリをおさえる。もう一人のおじさんがおのを下ろす。

 ニワトリの首はあっけなく体からはなれ、広場に転がっていく。

 広場に集まった人たちはかんせいをあげる。

 しかしチリちゃんはその首から目をはなせない。

「チリ」

 お母さんの声がする。

 そうだ。今のわたしにはしないといけないことがあるんだ! 村の人たちのために。いけにえになったニワトリさんのためにも。

 チリちゃんは首が取れたニワトリに両手をのばす。

 と。

「チリちゃん。覚えている?」

 チリちゃんの心に、そのニワトリの思いがとどく。

 もちろん覚えている。チリちゃんは全てのニワトリの顔を区別できるのだから。

「ちがうよ。きのうの夜、川べりで会っただろ」

「え」

 チリちゃんは転がったニワトリの首を見る。

 丸い目!

 たしかに前の夜に川の向こうにいた青年と同じ目だ!

「うすぐらくても見えたのは、チリちゃんがぼくのことをよく知っていたからなんだよ」

 チリちゃんは胴体だけになったニワトリの上へ、涙を落とす。

「泣かないで。ぼくはチリちゃんにはこんでもらうために生きてきたんだから。この日が来ることを、本当に楽しみにしていたんだから。さあ。早く長老さまの元にぼくを連れて行って」

「うん」

 チリちゃんはニワトリをかかえ、階段を上る。

 てっぺんで待つ長老さまは、目をはらしたチリちゃんに、

「ことしは特に、よくがんばったね。君は強くてやさしくて、いいおとなになることができるよ」

 とほほえんだ。

 空がくもり、大つぶの雨がふり始める。

 強まる雨を受けながら、チリちゃんは階段を下りて広場に戻る。もう近所のおじさんたちは、集まった人たちの中にまぎれてしまっている。小さなニワトリの首だけが忘れ去られて転がっている。

「チリ」お母さんが近寄って来る。「よくがんばったね。お父さんも喜んでるよ」

「お父さんは?」そのときチリちゃんは思い出した。ふしぎに感じた。「どうしてニワトリさんをお母さんがはこんできたの? 儀式にニワトリさんをはこぶのは男の人の役目なんじゃなかったの?」

「何言ってるんだよ。お父さんは妹が生まれてすぐに死んじゃったじゃないか」

「え……」

 チリちゃんの心の中で、何かが突然グサリとわれた。そのわれめから、笑っているお父さん、照れているお父さん、やさしいお父さん……いろんなお父さんの顔が……昨夜のニワトリの顔と同じように、次から次へと流れては消えて行く。

「でもお母さんとお父さんが相談して、あの子をいけにえにするって決めたんでしょ? 相談してたじゃない」

 チリちゃんはそのようすを覚えている。チリちゃんが台所へ行くと、話をやめた二人を。

「あれはお兄ちゃんだよ」

「……」

 チリちゃんはこんらんしていた。

 妹が生まれてすぐにお父さんは死んだ? じゃあわたしが覚えている、はっきりと覚えているお父さんは、一体だれだったの?

 そう考えたとき、

「ぼくだよ」転がっている首から、チリちゃんの心に声が届いた。「チリちゃんにだけぼくのすがたがお父さんに見えるように、まほうをかけていたんだ。この日のためにね。チリちゃんにはまだ支えが必要だったから。ぼくたちはみんな、それをよく知っていたから。ぼくはもうチリちゃんと会えない。なぐさめてあげることもできない。でもチリちゃんはこんなにつらいことを乗り越えることができたんだ。もうだいじょうぶ。ぼくは安心だ。チリちゃんが強い子にそだってくれて、本当に良かった」

 首からの気持ちは、それきり届かなくなった。

 雨が降り始めたことを喜ぶ人々の声を聴きながら、チリちゃんは涙をふいた。

 そして、

「お母さん。やっぱり天の神さまって、のりこえられないことは与えないんだね」

 と、言った。

 お母さんは笑って、チリちゃんの長いかみの毛をくしゃくしゃにした。

 チリちゃんとお母さんは、お兄ちゃんと妹の元へ歩いて行った。

四百字詰め原稿用紙 三十六枚

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