【岩井喜一郎&竹鶴政孝】 阪大⇒摂津酒造のご縁 《岩井と竹鶴②》
■前回からの続きです
前回はマルスウイスキーの概要についてお伝えしました。
本坊酒造のマルスウイスキーのブレンデッド・ウイスキーに「岩井トラディション」としてその名前の残る岩井さんですが、前回にご紹介した経歴が以下です。
この中の、
・大阪高等工業学校(現・大阪大学)醸造学科
・摂津酒造
で、岩井はある人物と深い繋がりを持つこととなるのです。
■それが竹鶴政孝!
サントリー(当時の社名は壽屋)山崎蒸溜所の初代工場長であり、サントリー退社後は北海道・余市の地でニッカウヰスキーを創業した日本ウイスキー史のキーパーソン:竹鶴政孝。
その竹鶴と岩井とは、とっっても深い繋がりがあります。
これ書き出すと止まらなくなるのですが、できるだけ手短に解説してみたいと思います!
■「大阪高等工業学校 醸造学科」の岩井と竹鶴
岩井も竹鶴も同じ「大阪高等工業学校 醸造学科(現・大阪大学 工学部)」の出身です。
(岩井が第1期生、竹鶴が第15期生)
竹鶴は、広島の造り酒屋(蔵元)の出身で、その流れで現・大阪大学の醸造科へ行きました。
ただ、竹鶴は昔ながらの「日本酒造り」よりも、当時ハイカラで新しいお酒としてこれからを注目されていた新式焼酎(今の甲類焼酎)などの蒸溜酒の方に興味がありました。
ちなみに竹鶴さんの実家筋の酒蔵は、今も広島県竹原で竹鶴酒造として、美味しい日本酒を醸しています。
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さて、両親に仁義を切った竹鶴さんは、大学の先輩で当時、摂津酒造の常務になっていた岩井に、摂津酒造への入社を相談します。
そして、この作成は大成功!
岩井の口利きもあり竹鶴は希望通り、摂津酒造へ入社するのです。
■「摂津酒造」の岩井と竹鶴
竹鶴は念願かなって入社できた摂津酒造で仕事に打ち込み、メキメキと実力を付けました。
前回もご紹介しましたが、当時の摂津酒造は壽屋(現サントリー)の赤玉ポートワインをOEMで製造していましたから、竹鶴も摂津酒造で赤玉ポートワインをつくっていたそうです。
そして、竹鶴のつくった赤玉は品質が良かった(暑い夏場でも吹きこぼれないなど)という逸話も残っているようです。
一方その頃、摂津酒造では「国産初のウイスキー事業への参入」を計画していました。
そのため、まずは本場スコットランドへ1名、ウイスキー研修のために派遣することにしました。
そして、摂津酒造の社長:阿部喜兵衛、常務:岩井喜一郎が選んだ社員が、竹鶴政孝だったのです!
こうして竹鶴は、阿部・岩井のおかげで、スコットランドへ約2年の「ウイスキー武者修行」へ、日本人として初めて行くことができたのです!
この竹鶴でのスコットランド修行の詳細は省略しますが、今の「留学」とは違って、
というレベルでした。
竹鶴は、現在のTV番組の「行き当たりばったり旅」みたいに駆けずり回って、どうにかウイスキーを学んで帰国するのです。
(これはまたいつか記事化したいと思います)
■通称:竹鶴ノート
スコットランドのウイスキー修行から帰国した竹鶴は、摂津酒造の上司=岩井へ、本場スコットランドのウイスキー製造現場で学んだことを報告書として手書きのノートで提出します。
「実習報告」と題されたそのノートは、竹鶴が自分で撮影した写真や、手書きのイラストもふんだんに入った詳細なレポートでした。
これが通称『竹鶴ノート』と呼ばれる報告書です。
竹鶴ノート | ニッカウヰスキー80周年 | NIKKA WHISKY
当時、日本で本格ウイスキーの製造技術についての情報は皆無でした。
また、本場スコットランドでも、ウイスキーの製造技術は味わいに直結するだけに「社外秘」とされ、詳細なレポートは残っていないのです。
こうした背景から、この竹鶴ノートの記述内容は大変貴重な情報であり、歴史的な意味合いは、非常に大きいと言えます!
■竹鶴が摂津酒造を退社
次回へ続きます!
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