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「家族で年越し」は、少しだけ疲れる。

 三箇日を過ぎて久々に普段通りの一日を終え、心のどこかでほっとしている自分がいる。
 実家暮らしの私はこの年末年始を普通に家族と過ごした。美味しいものを飲み食いし、普段あまり話す機会のない両親とおしゃべりしながらテレビを観た。非常にありがちで、特に苦労も困難もなく、お手本のような年越しだったと思う。・・・ただ、それがひと段落して、なんだか肩の荷が下りたような気がしたのは事実だ。

 思い返すと、イベントという非日常は、かつて私にとって「日常の上位互換」であり、永遠に終わってほしくないものだった。小学校の夏休みに母方の実家に帰省すると毎日、どこか楽しいところに連れて行ってくれ、美味しいものを食べさせてくれ、と甘やかされ三昧だったので、8月の後半になると滞在の残りの日数を数えては、元の生活に戻らなければならないのを毎年のように惜しんでいた。両親はともに節約家でめったに贅沢をさせないタイプだったので、祖父母に可愛がられる帰省期間中はまさに夢のような毎日だったのだ。

 それが今、そのようなイベントはむしろ、日常において欠かせない何かと引き換えに、高揚感や興奮を味わうものになっているような気がする。一番最近祖父母のところに行ったのは3年ほど前になるが、その時は以前ほど楽しいという感覚はなく、むしろ親戚への挨拶回りに付き合わされたり、連日のように外食に連れまわされたりするのが負担のように感じた。祖父母は相変わらず優しく愛情をもって接してくれるが、それを受け止めることに疲れを覚えてしまったのだ。もちろん楽しかったし、また機会があれば会いたいとは思うのだけど。

 今回の年越しも、それに似たところがあったような気がする。お酒や豪勢な食事を囲んで家族団欒をみんなで楽しむ。それはとても素敵なことで、喜ばしいものだ。ただ、それが毎日続いてほしいとは思わなかったし、思えなかった。何より疲れが出た。異口同音に反復される「楽しい時間だ」という感想が、「この時間を楽しまなければならない」という規範というか、ある種の強迫観念を形成しつつあり、心の逃げ場を失っていたんだと思う。
 非日常は日常から解放される反面、日常への回帰を許さないのだ。幼いころは抑圧からの解放に伴う快感に酔わされ、そのことについてまったく無自覚であったが、最近になってようやく、非日常が「日常の上位互換」なのではなく「日常の欠落」であるということに気がついた。

 少しショッキングではあるが、私としてはこの変化を歓迎しようと思う。浮かばれない日常の単なる気晴らしとしてつかの間の非日常を消費するよりは、日常にも非日常にもそれぞれの良さがあったほうがはるかに素敵だと思うからだ。行ったり戻ったり、悩んだり休んだり、決して特別ではないありふれた日々を大切にしつつも、時にはそこから離れて遠く離れた世界や、コミュニティのもつ普段と違う側面を覗いてみたりする。そんなふうにうまくバランスを取りながら生きていきたいものだと思う新年であった。

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