【2020.01.19】文章との付き合い③《作者と文体》

 あらゆる人がそれぞれの文体を持っている。いわば文章のクセである。文章をよく書く人は、自分のクセをわかっているから、逆に自分の文体の特徴が分かっている人は、たいてい文章がうまい。私自身については…何とも言えないが、少なくとも規範にしようと努める文体はあるし、文体を模倣してみたいと思う作家やライターの名前もいくつか浮かぶ。物書きの道は、他のあらゆる道と同様に「守破離」、すなわちまずは型を守り、次いで破り、そして独立するというプロセスがあるのだと思う。

 小説の文体などは典型的である。星新一や村上春樹なんかがよく引き合いに出されるが、独自の文体を確立している作家はやはり実力があるといっていいだろう。文体の違いは、単に物語に独特の彩りを添えるだけではない。それは視点の違いであり、世界観の違いである。もし全く同じ話を文体だけ変えて書こうと思えば、それは端々の言葉遣いの改変に収まりきらないだろう。語り手の語る世界は、語り手の内側に存在するのである。

 私は歴史小説を好んで読んでいた時期がある。同じ歴史小説といっても、作家によってその色合いはぜんぜん異なる。『坂の上の雲』を筆頭に代表的作家として名高い司馬遼太郎と、『風の陣』などで知られる高橋克彦とは、特にお気に入りであった。そして、それぞれの文体にそれぞれの良さがある。

 高橋克彦の『火怨』は、平安時代に蝦夷とよばれた北方民族の長、阿弖流為を題材とした私の大好きな作品の一つであるが、その語り口は、どこか映画を見ているかような迫力とスピード感がある。戦場を颯爽と駆け回る英雄たち、その心情に寄り添うかのように、作者はそれぞれの登場人物に対して丁寧にピントを合わせ、私たちもまるでそれを間近で見ているかのような臨場感を味わうのだ。彼らの期待は私たちの希望であり、彼らの落胆は私たちの絶望である。作者は時空の向こうから語りかけるようにして、私たちをそちらの世界へと招き入れるのである。

 言わずと知れた新選組副長、土方歳三の生涯をえがいた『燃えよ剣』は、私がはじめて読んだ司馬遼太郎作品である。司馬の歴史小説は、ある種の絵画である。登場人物を取り巻くあらゆる時間、あらゆる空間を包括し、それらが互いに影響しあう中で生まれたさざ波のように、勝者の隆盛と敗者の没落、絡みあう人間関係、時代の転換を描く。物語世界はたいしかにそこに広がっているのだが、その作者は、まるでソファに寛いで一緒にテレビでも観ているかのように、ちょうど思い出話でもするかのような口調でそれを語るのだ。語り手は生の先にまつ死を、歓びの向こうに佇む哀しみを見通していて、だからこそ彼の描くあらゆる幸福はその輝きを増すのである。

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