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文章を「聴く」

 私が文章を読むにあたって、「音」の存在は重要である。というのも、私は文字を読むときに頭の中でそれを音読して、それを聞くことで文字を認識している(ような気がする)からだ。考えてみると二度手間で奇妙な現象だが、案外みんなそうなのではないだろうか。

 速読のできる人は、文字を純粋に目で追ってそれを理解するらしい。いちいち音を介さないぶん、速く読めるというわけだ。私も本やなんかを早く消化できるに越したことはないと実践を試みるのだが、たしかにそこに文章があり何かが書いてあることは認識できるものの、それがまったく心に「ひびいて」こない。美味しい食事を大急ぎで掻き込んでいるような気がして、どうにももったいないように思えた。

 私は読むことも大いに好きだが、食べることも好きである。「本は心の栄養」ということばがあるが、食事と読書とは実によく似ている。双方、エネルギーないしは情報の供給という最低限の使命を抱いていながら、「美」に対する限りない追求がある。一方は、見た目の美しさ、味や香りの美しさ、そして季節や文化の象徴としての美しさをもとめ、他方はやはり筆画の美しさと、音韻の美しさ、意味のうえでの美しさを際限なく高めていくことができる。享楽をきわめた富豪の欲求、その行き着く先は美食と美文にほかならない。また、炊いた米に塩を振って握っただけのもっとも簡素な料理の味わいが時として果てしない崇高さを持ち得るように、十七ないし三十一の音だけで完結する素朴なつぶやきは、或る時には鬼神の如き力強さで我々の魂を揺り動かすのである。

 よい文章は、よい音をもつ。よい音とは、ある言葉が他の言葉をして共鳴させ、全体として調和し、波となって私たちの心をも振動させる音である。文章のうちのある特定の言葉だけが美しい音色を発しているだけでは不十分で、少なくともそれが他によって打ち消されることなく、また他を打ち消すことなく、決して抜きんでることなく、かつある程度の相対的な魅力を以て、我々に訴えかけなければならない。それは文章に限らず、あらゆる美に対して平等に適用されるべきことがらである。そして、そのような特殊と普遍との絶妙な均衡状態は、決して誰もが即座に生み出し得るものではない。

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