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卒業

 先日、大学四年生の私は無事に、卒業式の日を迎えた。

 もともと、私は卒業式のようなイベントがあまり好きではなかった。その内容というよりは、その機能において―すなわち、それまで続いてきた「日常」に終止符を打つにあたって、式典という「非日常」を借りてくることに違和感を覚えるのだ。
 卒業式において総括される学校生活という日々は、時に非日常的な出来事という例外はあるにしても、基本的には変わり映えしない、ありふれた行程の反復に過ぎない。
 その反復の終端として必要なのは「いつもより大切な反復」なのであって、「いつもと違う行事」ではないと思う。
 むしろそれは、まるで布地を丁寧に縫っていた糸を別の糸で縛り付けてしまうような、ある種乱暴な行為であるといえるのではないか。

 だからこそ私は、この卒業は積み重ねてきたものの「終わり」ではなく、むしろこれから進んでいく段階の「始まり」なのだと考えたい。
 もちろん自分自身の足跡を振り返る時間は必要だけれど、それは各々が必要なときに、必要であればしかるべき人と一緒に行えばいいだけの話だ。
 むしろ断続的に流れていく時間の一つの節目として、あるいは気持ちを切り替えていくための目印として、この卒業式という儀式はあるのだろう。
 私はぼんやりとそんなことを思いつつ、人込みでごった返している会場を後にしたのだった。

 一度キャンパスに戻って学位記を受け取り、特にすることもないのでそのまま帰ろうとしたら、今年修士課程を修了する先輩にばったり会った。
 その先輩と私とは専門分野も研究室も違うので普段のかかわりは全然ないのだが、実習先が二度も被ったうえに自宅が比較的近所だったことがきっかけで、たまにキャンパスで見かけると挨拶や近況報告をするようになったのだ(「先輩」というとなんだか高校生に逆戻りしたみたいだが、実際この方は私の高校の先輩でもあるので、そのように書くことにする)。
 せっかくなのでそれぞれの学位記を片手に写真を撮ってもらった。
 先輩のもつ修士の学位記は、私の学士のそれより書体が力強くて格好いいと思った。
 2年後の春、今度は私がその学位記を手にしているのだろうか。
 修士課程を終えた先輩はそのまま博士課程に進むと聞いている。念のため確認すると「まだあと3年は大学にいる」と笑いながら答えてくれた。
 私は、自らの将来を思って少し強張っていた心がほぐれるような気がした。

 私が進路として選んだのは同じ大学とはいえ、もともと別の学部の大学院である。もちろんほかの大学や海外に進む人もいるわけだから、それらに比べたら大したことはないのかもしれないが、元来臆病な私はその小さな一歩に正直なところ、少し不安になっていた。
 それに、文系学部においてそもそも大学院への進学という選択肢自体、決して多数派ではない。さして優秀な成績を上げているわけでもなく、とりわけ研究熱心な性格であるというわけでもなく、半ば迷いと甘えの中でこの道を選び取ってしまった。そんな生半可な覚悟の自分が、果たしてこれから新しい環境の中でうまくやっていけるのだろうか?

 けれど、その先に先輩の背中があることを改めて感じて、なんだか少し気が楽になったように思えたのだ。
 「お互い、院生生活頑張りましょうね」別れ際の先輩の言葉に私は「はい!」と元気よく返事をした。
 そして学位記を大事に鞄にしまうと、夕陽のまぶしい坂道を下って私は家路についた。

 その道すがら、同じく学位記を受け取りに来たのだろう、晴れ着姿の大学生たちとすれ違う。
 名前も知らない、けれど確かに同じ場所で学びを深めてきた仲間たちだ。
 彼ら彼女らがこれからどこに向かっていくのか、私には知る由もない。
 しかしその先に一筋の光明を願う気持ちは、誰しも同じなのではないだろうか。

 私、そしてこの文章を読んでくれているすべての卒業生へ。
 卒業、おめでとう。
 新たに踏み出したその道が、きっとどこかに通じますように。

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