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「博士」への憧れ

 「ものしりはかせ」になるのが夢だった。

 忘れたわけではないし意味もはっきり分かっているのに、年齢を重ねるにつれて使わなくなっていく言葉がある。「はかせ」もその一つだろう。「博士」—―この熟語は、子供の世界では「はかせ」だが、やがてそれは「はくし」へと変わっていく。むろん、変化するのは読み方ばかりではなく、その意味合いだって異なっている。

 「はかせ」と聞くと、なんだか物知りで、難しい本を読み、奇妙な実験道具を持っていて、知らない言葉や不思議な物語を聞かせてくれたり、科学の力で新しい世界への扉を開いてくれたりといったイメージがある。一方、「はくし」は特定の分野のエキスパートといった感じだ。「はくし」はほかの研究者や知識人に対して論文を書いている。それに対して「はかせ」は、子供にでもわかるようなやさしい言葉と楽しい実践で、何かを知りたいという気持ちに答えてくれる。「はくし」は研究によって給料をもらう仕事だが、「はかせ」はあくせくした様子もなく、お金のためというよりは興味本位で調査や研究をしている印象だ。

 幼心に、私はそういう「はかせ」に憧れたのだ。そしてその気持ちは、今も変わらない。

 物事に対して広範な知識をもっていることは、否定されることこそないが、それが評価される場面というのは案外少ないのかもしれない。分からないことはネットで調べよというご時世であり、手のひらサイズの機械が私たちの脳の代わりに瞬時に膨大な知識を獲得して記憶してくれる時代である。「私はれだけのことを知っている」と主張したところで、「そんなのはコンピューターの下位互換だ」と言われてしまう。

 しかし、それを言うなら陸上選手は競走馬の「下位互換」だし、水泳選手はイルカの「下位互換」ということになる。実際そうなっていないのは、彼らスポーツ選手が「「人間としての限界」に挑戦している」という建前を得ているからであり、彼らの営みに美的価値や倫理的価値が付与されているおかげで、一般大衆の支持を得られるからだ。そして、それらの需要が経済的な利益をもたらし、巨大な求心力をもち、結果として権力層に擁護されるからである。

 私が「はかせ」に憧れたのは、ひとがスポーツ選手に憧れたり、芸術家や職人に憧れたりするのと全く同じ動機である。それだのに、「勉強以外に何か取り組んだことはないの?」とか「人間としてつまらない」などという評価が世間に蔓延っているのは、どうも納得がいかない。

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