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母と過ごした2ヶ月半

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2022年8月。私は27歳、母は59歳。急に足が動かなくなった母は、ガンが脳に転移しており、余命1,2ヶ月と宣告される。私は仕事を休み、自宅で母の介護がスタートしました。母と過ご…
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#家族

55 テレビの時間

一人暮らしのアパートで、私はテレビは見ない。 しかし、実家に来てからは母の部屋でテレビをよく見ていた。 母がいなくなって数日経った夜。 リビングで流れるテレビをみて、 「あれ?この番組いつも見てたっけ?」 独り言を言って気づいた。 この時間にテレビをみていなかったのだ。 ーーー21時。 寝そうな母を起こしながら歯磨きをしたり 体を拭いたり 顔も身体も保湿をした。 母と話しながら出来るときもあったが 殆どが寝ていた気がする。 姉と二人でやることもあれば 私一人で

54 母であって母ではない、しかし母である。

呼吸が止まった。 心臓も止まった。 瞳孔は開いたまま。 遂に来たのだ。 この時を穏やかに迎えるために これまでがあった。 まず、訪問看護へ連絡をした。 ご連絡は落ち着いてからで大丈夫ですよ、と事前に看護師さんから説明があったので息を引き取ったと思われる30分後くらいに連絡を入れた。 看護師さんが死亡を確認した後、訪問診療のお医者さんに連絡、到着。 正式な死亡確認が行われ時刻が決定した。 その後は看護師さんと共に、体を拭いたりお着替えをしたり詰め物をしたり。 「お母

53 人は死に時を選ぶ

今日は昨日の残り物もあるし、一品でいいか、とできたおかずを手にいつもみんなでご飯を食べていた母の部屋に行く。 すると、父と姉が母の様子を近くで見ていた。私も急いで近づくと、母の呼吸が変わっているのに気がついた。さっきまで聞こえていた呼吸音は消え、すぐに、これこそが死の直前、最後の兆候、下顎呼吸だと理解した。 息が喉を通る音はもう聞こえない。呼吸のために必死に働いていた腹筋はもうお休みしていた。 口を微かに動かし空気を入れようとしている。 20分間、離れなかった。離れて

51 エラーと生きる

一週間前に、私の知っている母は死んだ。 何も食べない。 会話ができない。 喋らない。 目も見えない。 反応もない。 耳だって聞こえてるかわからない。 朝36度だった体温は、昼には39度。 上がったり下がったりを繰り返す。 ここに横たわる人は誰なんだ? 母はもう、母ではないじゃないか。 でも、それでも、、 生きていてくれと想いを捧げる。 と同時に 母をこの重い身体から、早く解放してあげてくれ 早く自由にさせてあげてくれ、とも願った。 人って時には呆気なく死ぬけど

50 祈り

何者かわからない何かに、私は祈っていた。 1日でも、1時間でも、1分でも、 母とのお別れをとどめてください。 お願いします。 ・・・神様。 家は曹洞宗。でも、普段から信仰深いわけでもなく、寺にも神社にも教会にもお祈りする。とりあえず神々しいものの前では手を合わせてみる。 そんな私だが、母はキリスト教に興味があったようだ。 母はそこまで信仰に熱心というわけではなかったが、 若い頃に聖書を勉強していたようで 「イエス様に祈るんだよ」 「天国や地獄は本当は無くてね、死

49 一週間ぶりに吸った

朝、目覚めると母は隣で呼吸を続けていた。母は今日も生きてる。 起床後に母の呼吸を確認、一安心する毎日だ。 今日は土曜日の朝、曜日感覚なんてもうどこかにいってしまった。 いつもと同じ朝なのに、土曜日というだけでうきうきする。長年土日休みをやってきたからだろうな。 「お母さん!晴れてるよー!お出かけしようよー!」 もちろん返事はない。 悲しいけど、無反応にも慣れてしまった。 昨日届いたムラサキシキブ。 母にとって思い出深い花なんだ。 花の写真を撮るついでに 秋晴れに

46 誰が為に

私はこの介護休業を得た実家ぐらしで 毎日続けていたことがある。 ①適度な運動(Switchのエクササイズ的なもの) ②鉄分摂取のためにプルーンを食べること ③毎食みんなのご飯を作ること それが、母が酸素マスクを付けてからパッタリできなくなったことがある。 ①と②だ。 どちらも短時間で終わる簡単なことだけど、それでも出来なかった。 出来なくなった自分と、それでも出来ることがある自分に気づいてハッとした。 出来なくなったのは、自分のためにやっていたことだ… 自分に構う

42 初たん吸引

今日は特に苦しそうにしていた。 咳き込み、タンが絡む。 ゼコゼコした呼吸。 20時頃。ますます状況は悪化。 こんな時、いくら家族とはいえ 知識ゼロの素人集団は何の役にも立たない。 私は訪問看護へ連絡し状況を説明すると たん吸引の機械をもって来てくれることになった。 機械を準備しながら看護師さんは言う。 たん吸引は苦痛を伴うもので… とても痛くて辛い処置なんです。 つらいようなら無理にしなくても大丈夫ですので… しかし、母は今苦しいのだ。 それどころではなさそう。

39 お迎え、きた?

お迎え体験って知ってる? なあにそれ、と母は私に聞き返す。 退院してすぐの時、母にこんな話をした。 もう亡くなっている人、 例えばおばあちゃんが夢に出てきて、 「あの世は楽しいところだから、怖くないよ、だからおいで!」って 話しかけてくるんだって。 それについて行ったら死んじゃうらしいよ。 だから、大好きなおばあちゃんから誘われてもついていったらダメだよ! 母は、わかったよ、と笑った。 ーーーーー そろそろ、おばあちゃんのお誘いがくるのではないかと思いラストラリー

38 お元気そうで

私の彼と母が会ったのは丁度その日だった。 ラストラリー全盛期。 なんてタイミングが良いのだろう。 彼が母と対面して、はじめに母に掛けた言葉は 「お元気そうで。」 だった。 お元気そうなのか。 初めて母とあった人には、 とても元気そうに見えるのか。 いや、 母の気遣いな言葉も、 その笑顔も ちょっと抜けてる発言も 全部いつもの母だ。 あぁ、母は今、いつものように、元気なのだ。

37 母の覚悟

朝起きても、変わらず母はハキハキ喋る。 意識障害、せん妄の影響はありつつも 話し方はしっかりしていた。 これは本当に最後のチャンスだと思った。 今日はどんな話でもいい。摩訶不思議な話でもどんとこい。話せるだけで幸せだ。 たくさんお話をしよう。 看護師さんが帰った後、母のエアベッドで無理やり、母と一緒に横になった。 すると母はしっかりした意識と口調で話し始めた。 今は、薬がたくさんあって延命治療もたくさんある。延命治療が良いか悪いかは、わからないけど、お母さんはつきとめ

36 ラストラリー 最後の回復

死が迫っているように見える人の症状が、一時的に回復することを「中治り現象」「ラストラリー」と言う。 その原因は、脳が長く生きようと、幸福感を生み出すホルモンが分泌されるためと考えられている。 そして、それは長くは続かない。 あくまでも一時的な回復である。 例えば、何も食べられなかった人が突然好きな物を食べだしたり、起き上がることのできなかった人が立ち上がり歩き出したり。 それは数時間〜数日だけの特別な回復とのこと。 ーーー 母にもそんなこと起きるのだろうか? この

35 心の支え

母の実家に行った日 実は今までで一番不調だったように思う。 ラーメンを一口食べたが、 口にしたのは一日を通してほぼそれだけ。 ほとんどの時間、目を瞑り 念願の実家に到着し祖父(母の父親)が話しかけてもほぼ無言。 【このまま弱って亡くなるのではないか】 ここ最近で一番、死を感じた日だった。 そろそろ別れの時が来るのか、覚悟しなければならないなと心がざわついた。 実家に帰っている期間、遠距離となっていた彼に現状を伝えた。 母は彼に会ったことがない。 それ故、以前か

34 よく食べたものは

母がよく食べたもの&飲んだもの 1位 サクレレモン 2位 オロナミンC 3位 ウェルチのぶどう 母はよく、アイスをたべました。 液体にとろみはつけずに提供しましたが 完全な液体よりも、氷のほうが水分摂取がしやすいようでした。 私が、「アイスはどうー?」 と言って食べるアイスを選んでもらったあと食べさせようとすると… 「ちゃぴおは何を食べるの?」 と聞いてくる。 「私は寒いしいいよ〜」 と返しても 「せっかくなら食べようよ!」  とすすめてくる。 一人だけ食