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母と過ごした2ヶ月半

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2022年8月。私は27歳、母は59歳。急に足が動かなくなった母は、ガンが脳に転移しており、余命1,2ヶ月と宣告される。私は仕事を休み、自宅で母の介護がスタートしました。母と過ご…
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#訪問看護

46 誰が為に

私はこの介護休業を得た実家ぐらしで 毎日続けていたことがある。 ①適度な運動(Switchのエクササイズ的なもの) ②鉄分摂取のためにプルーンを食べること ③毎食みんなのご飯を作ること それが、母が酸素マスクを付けてからパッタリできなくなったことがある。 ①と②だ。 どちらも短時間で終わる簡単なことだけど、それでも出来なかった。 出来なくなった自分と、それでも出来ることがある自分に気づいてハッとした。 出来なくなったのは、自分のためにやっていたことだ… 自分に構う

45 いよいよの境

酸素マスクが届いたのは夜中3時頃だったか。 夜中でも手配してくださることが本当に有り難くて。 口にマスクをしたが、違和感からか 勝手に外してしまうので 私は隣で夜通し、ずれたマスクを戻していた。 外していたら血中酸素濃度が低下して死んでしまう と思っていた。 多分、そう。 マスクをしていないと苦しいはずだから 私はせっせと戻していたけど……本当にそうだったのかな。 本当に専門知識のない人が自宅で看取るのは 難しいことだなぁと思う。 ケアが行き届かないし、どんな対

44 私にくれた最期の言葉

何が正しい処置なのかわからない。 ただ、怖かった。 苦しむ母を目の前にして何をすればいいかも分からず、 看護師さんの指示通りにやっても、苦しみ続ける。 今の状況が、死の直前なのか、死へ向かう過程なのか。わからない。お医者さんでもわからないのかもしれないけど。 とにかく苦しむ母をなんとかしたくて、 何が緩和ケアなんだと悔しくて、 友達が話してくれたことを看護師さんではなく、(看護師さんは酸素マスク導入について決められないらしい)お医者さんに電話相談した。 このときは既に

27 尿バッグしんどろーむ?

母は入院中に、尿のバルーンカテーテルをいれた。(尿バッグと呼んでいたので以下、尿バッグ) 退院後、600ml程出ていた尿も 1ヶ月後には半分になっていた。 水分摂取量にも寄るが、腎機能が正しく機能しなくなり、尿も徐々に出なくなるという。 「死ぬ24時間前には尿が出なくなるらしいよ。」姉が教えてくれた。 今日はまだ尿が出ている。ということは 今日も明日も生きる、大丈夫だ。 なんて安心材料にしていた。 尿関連でびっくりしたことがある。 1つは 紫色採尿バッグ症候群 だ。

12 訪問看護の看護師さんってなにするの?

自宅で看る、となると必要になるのが 訪問看護(看護師さん) 訪問診療(お医者さん) 訪問介護(介護士さん) でした。 すべての手配はケアマネさんがスムーズに行ってくれ、3つそれぞれ別の会社にお願いしました。 とりあえず、病院の先生やケアマネさんからのアドバイスの元利用回数などを考えたが… 一体何をしてくれるんだ? どのくらいの回数が適当なのか? 初めてのことでさっぱりでした。 一番多く来てもらったのが ①訪問介護の看護師さん はじめは週に2回お願いしていましたが、

11 自宅での介護【準備したもの】

8月下旬、母は自宅へ戻ってくることとなった。 参考までに、新たに準備したものや便利だったものを紹介します。  ✰私の母の場合 書き出してみるとたくさんあったなぁと。大体がドラッグストアの介護用品売り場で購入した。 終末期の前半と後半で使用頻度がかわるものがありました。 ※特にスポンジは後半痰がからむことが多くなり、一日何本も使用することに。 母の場合ですがご参考までに。

6 救急車

今朝は通院。 朝起きて、通院の身支度をしながら 母の異変に気づいた。 片目の視線がズレている 呂律が回らない 加えて下半身不随となった身体で普通の乗用車への乗車も難しい。その中で30分も車に揺られて通院はもはや不可能だった。 「救急車を呼ぶ!」 父の判断は正しかった。 救急車で通院となった母。 近所の目を気にする母は、 「ピーポーは鳴らさないで!」 と強く言っていた。 しかしピーポーサイレンは必ず鳴らさないといけないらしい。

3 母のそばにいる くまさん

私が高校生のとき、母は乳がんが再発し片方の乳房が全摘となる。 ーーー 入院前一緒に出かけたジャスコ。(田舎) 母が、 「これかわいい!🧸」 と珍しくくまのぬいぐるみを見ていた。 その時は何気なく聞いていただけだったが 母が入院後、くまさんのことをふと思い出し、買いに行き病室へ届けた。 「覚えていてくれたんだ!」 ぬいぐるみで、キラキラと喜ぶ母。 想像以上の喜びように、母が可愛いと思った。 ーーー そのくまは今年の8月、最後の入院時も側にいた。 くまさんのこ

2 乳がんのはじまり

17年前、乳がんを患った母はその時に温存療法として乳房の一部を切除した。 私は小学生だったか。 その頃から母は痛いが口癖になっていたように思う。 天気が悪いと傷が痛むようだった。 正直そのくらいの記憶しかない。小学生の記憶なんてそんなものなのかもしれない。 しかし、一つだけ、覚えていることがある。 彼女は、自分が障害者になったみたいと言った。  みんなと違って、変な形になってしまったんだと小学四年生の私に切なく口にした。 彼女は周囲と異なることを極端に嫌っている。

1 母からの連絡

ちゃぴおー! 名前だけを呼ぶ、一言のLINE。 どうしたの?と返すと 何してるのか、気になっただけ。 それだけだった。 遠くに住む両親からの連絡はいつもそんな感じだった。何をしてるのかご飯を食べてるのか、時折連絡が来て、スタンプで終わる会話。 しかし、暫くして父から連絡が来た。 母はもう一人で歩けていない。

27歳 自宅で乳がんの母を看取る 

今起こっている全てを、 受けいれる第一歩として。 自身に捧げる。 ーーーーー 59歳の母は17年前乳がんを患いその後再発、転移を繰り返し最後は脊髄、脳にも転移。2022年8月に予後は1、2ヶ月と宣告を受けました。 入院し治療を受けた後、自宅での療養へ切り替え。 訪問看護、訪問診療を活用しながらのケアとなった。 この大事なかけがえのない時間を、 少しずつ言葉にしていこうと思う。