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ホームプレイス。

私はホームという地元がない。

生まれは日本だけど、6歳の時に渡米し、小学校時代をアメリカで過ごしたため、
子供の頃の記憶はアメリカが多い。

0歳から6歳までいた日本ではあまりいい記憶がなく、『みにくいアヒルの子』を読んだ時、この仲間外れのアヒルの子と私は一緒だと共感した。
私はここではない。
まだ4−5歳だったけど、自分は日本ではない遠い国の住人でいつか日本を離れその地へ戻ると真剣に信じていた夢見る夢子だった。

だからいざアメリカに引越すとなった時、
私が思ってたことは夢じゃなくて本当なんだ、夢は叶うと幼いながらに感動した。

面白いのは後で聞いた話。
私が生まれる前後、当時叔母は占い師とお付き合いしていた。
結婚も考えていたそうだが、親戚一同から大反対を受けお別れしたらしい。
その占い師の方は見える人でもあり、生後まもない私の写真を見て、
「海外に連れてってー、ってこのベビー言ってるよ。国際的な人物になるね。」
と言ったらしい。

アメリカでの暮らしは全てがいいことばかりではなかったけど、
萎縮していて違和感しか感じなかった日本での生活とは打って変わって、自由に羽根を伸ばし、のびのびと自分らしくいれる子供時代を過ごすことができた。

それからまた日本に戻ってからのティーン時代は私の中での暗黒時代だが、
義務教育、高校さえ卒業すれば、自由の身。
私はまた海外へ行く、と決心し、そのことが励みとなって何とかサバイバルできた。

ヨーロッパに行きたいということは8−9歳の時から決めていたこと。
ロンドンとパリは絶対いつか行くんだと、着々と準備をしていた。
高校の第二ヶ国語ではフランス語を専攻した。
語学をテキストや教科書を使って学ぶという勉強法が嫌いだったし、そのような勉強方法に全く興味がなかったためパッパラパーな生徒ではあったが、それでも会話はピカイチだった。フランス語の成績は特に良くなかったのに、会話力が評価されたのか、卒業の時にフランス語の賞をいただいた。今でも謎である(笑)
妄想が強い私は、暗黒の高校時代を乗り切るために自分がフランスに暮らしているっていうビジョンを常に持ち続け現実逃避をしていたから、フランス語の授業では情熱と意気込みがすごかったのかも。

念願のロンドンにいた2年間。
思い描いてたロンドンの雰囲気と違った。
というより、ロンドンのエネルギーは合わない、ホームプレイスだとは感じられなかった。
ココだ!と思ったのはフランス。
やっぱりねとは思ったけど、フランスはマイホームだと感じた。
フランス語が話せるといってもネイティブには程遠いし、フランスの中では私は謎のアジア人。
フランス人が親切かといえば、色々言う人はいるかもしれない。
でも、その雰囲気でさえ私からしてみればあまり気にならない。
きっとフランスという国のフィーリング、バイブレーションが合ってるからだろう。

スイスはとても住みやすかったけど、フランスほどホームプレイスとは感じられなかった。
ドイツやオーストリア、オランダ、スペインも何かが違った。

また面白いのはベルギー。
以前2日間の弾丸旅でオーディションを受けにベルギーに行ったことがある。
そのカンパニーとは雰囲気が合わなかったが、またいつか来る感じがした。
10年の時を経てJ と出会い、ベルギーに頻繁に行くようになった。

同じことがフランスでもあった。
フランスには2年間住んでた。
南仏のカンヌという場所だ。
2年間の間、休みがあるたびにパリに行ってた。
契約が終了してフランスを離れる時、多少は寂しい気持ちにはなったものの、
将来またフランスに住むような気がしたため、逆に楽しみの方が大きかった。
理由はわからないが、将来またフランスで暮らす。
根拠のない確信だが、深いご縁を感じる。

J と付き合ってからフランスは度々行くようになった。
フランス北部とパリにお家があり、旅行というよりは住む感覚に近い。
何でかわからないけど、フランスは落ち着く。
多分そのうちその理由がわかるのかも。

算命学の先生にみていただいた時、
フランスは合ってるよ、と言われた記憶がある。
流れる水のあるところ、お城や王室がある場所が私のラッキースポットらしい。

今年後半は一旦日本に完全帰国する予定だけど、
点と点がどのように繋がっていくのだろう。
この先またヨーロッパに暮らすようになる気がしてならない。



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