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大学卒業後の進路のはなし

やっぱさ、初noteって何書けばいいかわからないもんだよね。

というわけで、近況報告でもしようと思ったんだけど… 2020年、世界も激動の時代感あるけど、個人的にもそれなりに動きが大きめな年なもんで、いまいち報告できず。まだ公にできないこともあり。

なので、とりあえず大学卒業前後あたりから数年の話をなんとなく書いてみようかなー、と。キャリア観的な話をしてみようかなー、と。


大学生って卒業後の進路決めるのめっちゃ好きだよな。偏見かもしれんけど。大学3年にもなったらインターン?で4年になったら就活?それも違う?いやマジで理解が追いついていないので、世間一般の大学生がどんなスケジュール感で動いているのかもいまだぶっちゃけよく知らない。まあ、どうでもいいんだけど。

そのことにすごい違和感あってさ、だって大学生の時間って卒業後の就職先探すための期間なんだっけ…。少なくともそうであるとは誰からも聞いたことないし、教わったこともないし、感じたこともない。卒業後何して働きたいかなんて、在学中に決まることもあれば、卒業数年後に決まることもあって、本来その足並み揃うわけなくない??

というか、無理に足並みを揃えていないといけないみたいなプレッシャーとか、そのプレッシャーに苦しんでいる人とか、そういった人が周りに増えてきて、人間味みたいな人として素敵な部分がどんどん曇って見えにくくなっていくそのさまがあまり好ましく思えなかった。
(※もちろん業種によっては就活をマジで熱心にしないといけないものが存在するのもわかるので、その行為や状態を全否定するつもりはない)

前置きが長くなったけど、そんな感じで大学4年時から就活をする気はほぼなかった。ただ、さすがにちょっとどんなモノなのか気になってはいた。すると偶然某大手企業のES提出期日前日の夜勤が仕事少なくて暇だったので、これは何かの縁だと思って夜勤中にES書いて、郵送して、試験的なのを経て、最終面接まで行った。「本当にウチに来たいと思ってんのか?」みたいなこと聞かれて、「いいえ」って言ったら落とされた。こんなクソ野郎のために貴重な面接官の時間を使わせたのがただただ申し訳なかった。

大学生としての就活はこの1社で終わった。まあ結局留年して卒業が半年遅延したんだがな。ワロタ

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いつ頃から思っていたのかは覚えてないけど、卒業間際に思っていたキャリア観として自分が大事にしていた考え方がある。それは、「人生波がある、あえて波を作る」ということ。気持ちの浮き沈みの話ではなく、お金の浮き沈み、自己実現度の浮き沈み、我慢度合いの浮き沈み、など。さまざまな要素が複雑に波を描いて、パラメータが変化していく。そんなもんなのだ、と。

もう少し具体的に書くと、当時自分の中で考えていたのは、20代後半まではお金は必要最低限しか稼がない、でも我慢して働くことはしないし、技術をつけ、やりたいことをやる。30代から40代前半にかけてはお金を稼いで、ちょっと自己実現は我慢して真面目に働く。みたいな。それを決めないといつまでも遊ぶ気がした。笑

もうひとつ思っていたキャリア観に、「自分の年表と世の中の年表を重ねる」というものがある。2020年に26歳になるというのはもう1994年生まれである以上どうしようもないことだけど、オリンピックの年にわりと自由な生き方をするということは自分で設定できることである。つまり、何歳の自分が何をしていたいかということのみではなくて、何が起こる何年に何をしていたいか、ということも考えられる視点だ、ということ。

特に深い思い入れもないけど、もう生きている間に訪れないかもしれない東京オリンピックにせっかくなら少しでも携わりたい、と大学卒業前に思っていた。だから2020年前後にはプー太郎していたかった。まあ結局2019年にオリンピックのPR用イベントトラックで全国行脚という仕事を受けることができたわけだ。ちなオリンピックは2020年に開催されなかったんだけどな。

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そんなわけで、2017年9月に大学を卒業後、トラックドライバーと某ベンチャー企業でのお仕事と、あと学生時代からやってきた某一般社団法人とかで働いていた。そう、私も作業着ではないそれなりの格好をして電車通勤しオフィスで働いていた時代があったのだ。ま、某ベンチャーは3ヶ月で辞めたんだけどな。電車で新宿行くのダルかった。新宿はでけぇトラックかバス運転して行く場所だよ。

当時は「1週間の7日間を7色に塗り分けるような、毎日全く違う生活をしたい」とか言っちゃって、毎週母校のSFCに行き、隔週長野の諏訪でワークショップを開き、オフィス行ったりトラック乗ったり…。まあ色々してた。でも7色に塗り分け過ぎて、もはや塗り分けて毎日全く違う一日を過ごすということ自体に飽きてしまった

ちなみにこのへんで秘書検定2級を取得。上司なんぞろくにいない世界で過ごしていたので、最低限のビジネスマナーを学んでいないといざお硬い職場に働き始めたときに苦労すると察し、取ってみた。今思えば7割くらい自己満。そして附属高出身で7年ほどろくに勉強してこなかったので、勉強する癖を付けたかったというのも理由の1つだった。

そう、なぜ勉強する癖が必要になったのか。それは、波がある人生のうち30代から40代前半にかけて国で働いてみたいと思ったからだ。官僚として働くには国家公務員試験を突破しなければならず、その勉強が1000時間必要とか言われているので、まずは椅子に座ってペンを握ることからおさらいしなければならなかった。

国で働いてみたいと思った理由は、まあ色々あるんだけどざっと話すと、仕組みを作る側にまわりたい、それなりに日本全国見てきた(と当時は思っていた)人間として現実味のある視点を取り入れてもらいたい、そもそも日本好き、国が人口減と高齢化が進むなか悲観的にならず盛り上げたい、日本中にあるさまざまなバランスの悪い部分を少しずつ是正したい、など…。

まあ目指してみて、教材に数十万課金して、コツコツやるのが大変苦手な私にはとても難しかったけど、進行速度に波がありながらも勉強を進めた。ゴミのようなツイッタラーしながらも勉強していたし、2019年に半年かけて仕事で全国出張していた頃、待機の時間中は大抵ホテルで勉強していた。まあ3回受けて全部落ちたんだけど。

っていうかダメだね、元々得意だった数学系はわりといけるんだけど、それ以外がどうしようもない。ちょっとやそっとの勉強量で働きながら、他の活動もしながらでどうにかなる感じではなかったわ。少なくとも私の脳では。この役に立つんか立たんかよくわからんような勉強を強い志を持ち続けて1000時間以上できる合格者はほんとすげぇって思った。


でまあ、国家公務員を諦めきってはいなかったんだけれども、さすがにそろそろ親や親戚などからの「おたくの息子さすがにプー太郎すぎん?」的な視線が耐えるに耐えられないレベルになり、気力も体力も自信もなくなり、精神的に完全に参った。ぶっちゃけ自分で決めた進路だからと強い意思を持って進んでいたつもりではあったんだけど、10年以上も前のトラウマがたくさん蘇ってきたあたりから「これはちげぇ」って思った。身体が一番正直だ

そんで3年ぶりに就活っぽいことを始めようと思った。一度も正社員という世界を知らなかったので、たまにはなってみたいと思うようになり、テキトーな検索条件で一番上にヒットした大手量販店系のドライバーを申し込んでみた。面接にいったら「君は頭が良さそうだからドライバーなんかじゃなくて本社に来てくれないか?」と言われ、断ったら落とされた。

まあそれはいいんだけど、その後知り合いの就職相談みたいなの受けてみたり、半分オファーみたいな声がけをしてもらったり、色々あったんだけど。進路について他人に相談していて、その過程で改めて気付かされてしまった。「東京は私を欲していない、私は東京を欲していない」みたいな、感覚。わかりやすく言うと、チゲぇみたいな感じ。わかりにくいか。

もうそのチゲぇが判明した瞬間、それまで5年弱活動を続けていた群馬の山村の関係者に連絡した。もうそれは直感のようなもので、他を探すという選択肢はなかった。群馬でのNPOの立ち上げ、運営、その他元々興味のあった木関連の仕事をすること等の頭の中でのイメージが爆速で進み、2020年1月から林業を始めるに至ったのである。

「得意なことを捨てる勇気、新たな道を探す根気」。進路を考えるとき、得意なことややっていて楽しいことをベースにするのは悪いことではない。でもイージーな沼なんだよな。はまればはまるほど抜け出し辛くなる。一生その道で生きていく覚悟があるなら話は別だけど、第2第3の人生もある可能性があるなら、いつかその道を捨てる勇気が必要になる日は来る。

私の場合は、ほぼ生まれてからずっと得意だった数学を大学でも極めようと思っていたけど捨て、高校生の頃から数学の先生やっていてそれなりに極めたつもりだけど大学4年で捨て、トラックドライバーとしての道もそろそろ捨てようとしている。捨てたらまた何か極める。色々極めていたらいつの日かそれらが繋がる。と思う。捨てることはなくなることじゃない


なんか偉そうなこと言っちゃってる自分、書いてて痛々しいんだけど。でももうちょい続けさせて。まあ要するに大学卒業時にそれっぽく作っていた人生設計の計画はわりとひっくり返ったんだよな。でもひっくり返ってからが始まりかな〜と思って。そんなさぁ、100年前後生きるのに一度たりともひっくり返らないことなんてないだろ冷静に。

なんだろう、まだ26年しか生きてないけどさ、なんやかんや色々あったしさ、高校入るまで学業それなりにやってさ、全国各地での活動とか、まあ色々やってさ。後期高齢者に言ったら怒られそうだけど一旦人生やりきった感みたいなのあってさ。これが老化ってやつか〜とも思えるけど何なら一旦区切りつけたほうがいいんじゃね?とか思っちゃってさ。

というわけで、25歳で一旦死んだことにした。心とか頭とかね。また0歳からのスタート。今は1歳かな。ぽギャー。100年生きる前提でどんな100年過ごすか考えるのは壮大過ぎてイメージできないけど、25年くらいだったらいけんじゃね?的な。いま4分の1終わったところ。じゃあ50歳までどんな生き方する?ってところ。


ちょっとそれなりに話長くなってしまったので、そろそろ終わりにしようかな。ということで、26歳以降の話、林業はじめてみてからの認識の変化とかの話は別の記事で書くんじゃないかな、と思う。

ちなみに、今は大学卒業時の自分が定職に就くという道を放棄したことを一切後悔していない。数多くの技術も身についたし、キャリア観を何にも邪魔されずに白紙で考えるきっかけになってよかったな、と思う。マジで金は溜まらなかったけどそれ以上の物は得た、つもり。

就活のシステムという他人が作ったレールに乗っかると、コケたとき若干レールのせいにしたくもなるだろうけど、人生の波を自分で描いたので全部自分のせい。だからその人生観が引き起こした失敗も、少々時間がかかってでも真正面から受け入れられる。この感覚は生涯忘れないだろうな。

あ… ちなみに、ライフキャリア論だかキャリア開発論だか忘れたけど、そんな感じの授業の単位を落として留年が決まった。

ったくよ、偉そうに語んなや


はい、まとめ

・大学生、卒業後の進路決めるの好きすぎん?
・進路の足並み、揃える必要なくね?
・「人生波がある、あえて波を作る」
・「自分の年表と世の中の年表を重ねる」
・「得意なことを捨てる勇気、新たな道を探す根気」
・一旦死んだことにした

それではまた〜〜


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